て来る。そこには何等の映像をも与へない叙景があつた。何等の感激をも含まない詠歎があつた。さうして又、何等の理路を辿らない論弁があつた。彼が数日を費して書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、悉《ことごと》く無用の饒舌《ぜうぜつ》としか思はれない。彼は急に、心を刺されるやうな苦痛を感じた。
「これは始めから、書き直すより外はない。」
 彼は心の中でかう叫びながら、忌々《いまいま》しさうに原稿を向うへつきやると、片肘《かたひぢ》ついてごろりと横になつた。が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。彼はこの机の上で、弓張月《ゆみはりづき》を書き、南柯夢《なんかのゆめ》を書き、さうして今は八犬伝を書いた。この上にある端渓《たんけい》の硯《すずり》、蹲※[#「虫+璃のつくり」、第3水準1−91−62]《そんち》の文鎮、蟇《ひき》の形をした銅の水差し、獅子と牡丹《ぼたん》とを浮かせた青磁《せいじ》の硯屏《けんびやう》、それから蘭を刻んだ孟宗《もうそう》の根竹の筆立て――さう云ふ一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでゐる。それらの物を見るにつけても、彼は自《おのづか》ら今の失敗が、彼の一生の労作に、暗い影を投げるやうな――彼自身の実力が根本的に怪しいやうな、忌《いま》はしい不安を禁じる事が出来ない。
「自分はさつきまで、本朝《ほんてう》に比倫を絶した大作を書くつもりでゐた。が、それもやはり事によると、人並に己惚《うぬぼ》れの一つだつたかも知れない。」
 かう云ふ不安は、彼の上に、何よりも堪へ難い、落莫たる孤独の情を齎《もたら》した。彼は彼の尊敬する和漢の天才の前には、常に謙遜《けんそん》である事を忘れるものではない。が、それ丈に又、同時代の屑々《せつせつ》たる作者輩に対しては、傲慢《がうまん》であると共に飽迄《あくまで》も不遜である。その彼が、結局自分も彼等と同じ能力の所有者だつたと云ふ事を、さうして更に厭《いと》ふ可き遼東《れうとう》の豕《し》だつたと云ふ事は、どうして安々と認められよう。しかも彼の強大な「我《が》」は「悟り」と「諦め」とに避難するには余りに情熱に溢れてゐる。
 彼は机の前に身を横へた儘、親船の沈むのを見る、難破した船長の眼で、失敗した原稿を眺めながら、静に絶望の威力と戦ひつづけた。もしこの時、彼の後の襖《ふすま》が、けたた
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