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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)神田同朋町《かんだどうぼうちやう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)不相変|発句《ほつく》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「石+薄」、第3水準1−89−18]
[#…]:返り点
(例)食随[#二]鳴磬[#一]巣烏下
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一
天保二年九月の或午前である。神田同朋町《かんだどうぼうちやう》の銭湯《せんたう》松の湯では、朝から不相変《あひかはらず》客が多かつた。式亭三馬《しきていさんば》が何年か前に出版した滑稽本の中で、「神祇《じんぎ》、釈教《しやくけう》、恋、無常、みないりごみの浮世風呂《うきよぶろ》」と云つた光景は、今もその頃と変りはない。風呂の中で歌祭文《うたざいもん》を唄つてゐる嚊《かかあ》たばね、上り場で手拭をしぼつてゐるちよん髷《まげ》本多《ほんだ》、文身《ほりもの》の背中を流させてゐる丸額《まるびたひ》の大銀杏《おほいてふ》、さつきから顔ばかり洗つてゐる由兵衛奴《よしべゑやつこ》、水槽《みづぶね》の前に腰を据ゑて、しきりに水をかぶつてゐる坊主頭《ばうずあたま》、竹の手桶と焼物の金魚とで、余念なく遊んでゐる虻蜂蜻蛉《あぶはちとんぼ》、――狭い流しにはさう云ふ種々雑多な人間がいづれも濡れた体を滑《なめ》らかに光らせながら、濛々《もうもう》と立上る湯煙と窓からさす朝日の光との中に、糢糊《もこ》として動いてゐる。その又騒ぎが、一通りではない。第一に湯を使ふ音や桶を動かす音がする。それから話し声や唄の声がする。最後に時々番台で鳴らす拍子木《ひやうしぎ》の音がする。だから柘榴口《ざくろぐち》の内外は、すべてがまるで戦場のやうに騒々しい。そこへ暖簾《のれん》をくぐつて、商人《あきうど》が来る。物貰ひが来る。客の出入りは勿論あつた。その混雑の中に――
つつましく隅へ寄つて、その混雑の中に、静に垢《あか》を落してゐる、六十あまりの老人が一人あつた。年の頃は六十を越してゐよう。鬢《びん》の毛が見苦しく黄ばんだ上に、眼も少し悪いらしい。が、痩せてはゐるものの骨組みのしつかりした、寧《むしろ》いかつい[#「いかつい」に傍点]と云ふ体格で、皮のたるんだ手や足
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