めになる指環《ゆびわ》、――ことごとく型を出でなかった。保吉はいよいよ中《あ》てられたから、この客の存在を忘れたさに、隣にいる露柴《ろさい》へ話しかけた。が、露柴はうんとか、ええとか、好《い》い加減な返事しかしてくれなかった。のみならず彼も中《あ》てられたのか、電燈の光に背《そむ》きながら、わざと鳥打帽を目深《まぶか》にしていた。
 保吉《やすきち》はやむを得ず風中《ふうちゅう》や如丹《じょたん》と、食物《くいもの》の事などを話し合った。しかし話ははずまなかった。この肥《ふと》った客の出現以来、我々三人の心もちに、妙な狂いの出来た事は、どうにも仕方のない事実だった。
 客は註文のフライが来ると、正宗《まさむね》の罎《びん》を取り上げた。そうして猪口《ちょく》へつごうとした。その時誰か横合いから、「幸《こう》さん」とはっきり呼んだものがあった。客は明らかにびっくりした。しかもその驚いた顔は、声の主《ぬし》を見たと思うと、たちまち当惑《とうわく》の色に変り出した。「やあ、こりゃ檀那《だんな》でしたか。」――客は中折帽を脱ぎながら、何度も声の主《ぬし》に御時儀《おじぎ》をした。声の主は俳人の
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