露柴《ろさい》、河岸《かし》の丸清《まるせい》の檀那だった。
「しばらくだね。」――露柴は涼しい顔をしながら、猪口を口へ持って行った。その猪口が空《から》になると、客は隙《す》かさず露柴の猪口へ客自身の罎の酒をついだ。それから側目《はため》には可笑《おか》しいほど、露柴の機嫌《きげん》を窺《うかが》い出した。………
鏡花《きょうか》の小説は死んではいない。少くとも東京の魚河岸には、未《いまだ》にあの通りの事件も起るのである。
しかし洋食屋の外《そと》へ出た時、保吉の心は沈んでいた。保吉は勿論「幸さん」には、何の同情も持たなかった。その上露柴の話によると、客は人格も悪いらしかった。が、それにも関《かかわ》らず妙に陽気《ようき》にはなれなかった。保吉の書斎の机の上には、読みかけたロシュフウコオの語録がある。――保吉は月明りを履《ふ》みながら、いつかそんな事を考えていた。
[#地から1字上げ](大正十一年七月)
底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚
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