の噂は保吉さえも何度か聞かされた事があった。「はいろうか?」「はいっても好《い》いな。」――そんな事を云い合う内に、我々はもう風中を先に、狭い店の中へなだれこんでいた。
 店の中には客が二人、細長い卓《たく》に向っていた。客の一人は河岸の若い衆、もう一人はどこかの職工らしかった。我々は二人ずつ向い合いに、同じ卓に割りこませて貰《もら》った。それから平貝《たいらがい》のフライを肴《さかな》に、ちびちび正宗《まさむね》を嘗め始めた。勿論|下戸《げこ》の風中や保吉は二つと猪口《ちょく》は重ねなかった。その代り料理を平げさすと、二人とも中々《なかなか》健啖《けんたん》だった。
 この店は卓も腰掛けも、ニスを塗らない白木《しらき》だった。おまけに店を囲う物は、江戸伝来の葭簀《よしず》だった。だから洋食は食っていても、ほとんど洋食屋とは思われなかった。風中は誂《あつら》えたビフテキが来ると、これは切り味《み》じゃないかと云ったりした。如丹はナイフの切れるのに、大いに敬意を表していた。保吉はまた電燈の明るいのがこう云う場所だけに難有《ありがた》かった。露柴も、――露柴は土地っ子だから、何も珍らしくは
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