[#「に」は底本では「にに」]もたつた一つの情事だけは打ち明けなかつた。それは彼が十八の時、或年上の宿屋の女中と接吻したと云ふことだつた。彼は何もこの情事だけは話すまいと思つた訣《わけ》ではなかつた。唯ちよつとしたことだつた為に話さずとも善《よ》いと思つただけだつた。
それから二三年たつた後《のち》、彼は何かの話の次手《ついで》にふと彼女にこの情事を話した。すると彼女は顔色《かほいろ》を変へ、「あなたはあたしを欺ましてゐた」と言つた。それは小さい刺《とげ》のやうにいつまでも彼等夫婦の間に波瀾を起す種《たね》になつてしまつた。彼は彼女と喧嘩をした後《のち》、何度もひとりこんなことを考へなければならなかつた。――「俺は余り正直だつたのかしら。それとも又どこか内心には正直になり切らずにゐたのかしら。」
十三 「いろは字引」にない言葉
彼はエデインバラに留学中、電車に飛び乗らうとして転《ころ》げ落ち、人事不省《じんじふせい》になつてしまつた。が、病院へかつぎこまれる途中も譫語《うはごと》に英語をしやべつてゐた。彼の健康が恢復した後《のち》、彼の友だちは何げなしに彼にこのことを
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