ざとなつて見ると、冷《ひやや》かに3と別れることは出来ない心もちに陥つてゐた。
彼は3と逢ひながら、時々彼女のことを思ひ出してゐる。彼女も亦4と遠出をする度に耳慣れない谷川の音などを聞き、時々彼のことを思ひ出してゐる。……
八 実感
或殺人犯人の言葉。――「わたしはあいつを殺しました。あいつが幽霊に出て来るのは尤《もつと》も過ぎる位尤もです。唯わたしが殺した通りの死骸になつて出て来るならば、恐ろしいことも何もありません。けれどもあいつが生きてゐる時と少しも変らない姿をして立つてゐたり何かするのが恐しいのです。ほんたうにどうせ幽霊に出るならば、死骸になつて出て来やがれば好《い》いのに。」
九 車力
僕は十一か十二の時、空《あ》き箱を積んだ荷車が一台、坂を登らうとしてゐるを見、後ろから押してやらうとした。するとその車を引いてゐた男は車越しに僕を見返るが早いか、「こら」とおほ声に叱りつけた。僕は勿論この男の誤解を不快に思はずにはゐられなかつた。
それから五六日たつた後《のち》、この男は又荷車を引き、前と同じ坂を登らうとしてゐた。今度は積んであるのは炭俵だつた。が、僕は「勝手にしろ」と思ひ、唯道ばたに佇《たたず》んでゐた。すると車の揺れる拍子に炭俵が一つ転げ落ちた。この男はやつと楫棒《かぢぼう》を下ろし、元のやうに炭俵を積み直した。それは僕には何《なん》ともなかつた。が、この男は前こごみになり、炭俵を肩へ上げながら、誰か人間にでも話しかけるやうに「こん畜生《ちくしよう》、いやに気を利《き》かしやがつて。車から下りるのはまだ早いや」と言つた。僕はそれ以来この男に、――この黒ぐろと日に焼けた車力《しやりき》に或親しみを感ずるやうになつた。
十 或農夫の論理
或|山村《さんそん》の農夫が一人《ひとり》、隣家の牝牛《めうし》を盗んだ為に三箇月の懲役に服することになつた。獄中の彼は別人のやうに神妙に一々獄則を守り、模範的囚人と呼ばれさへした。が、免役になつて帰つて来ると、もう一度同じ牝牛を盗み出した。隣家の主人は立腹し、今度も亦《また》警察権を借りることにした。彼等の村の駐在所の巡査は早速《さつそく》彼を拘引《こういん》した上、威丈高《ゐたけだか》に彼を叱りつけた。
「貴様は性《しやう》も懲《こ》りもない奴《やつ》だな。」
すると
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