さうしやくしや》になり白瀬中尉《しらせちうゐ》を当てこんだ「南極探険」と云ふ芝居へ出ることになつた。勿論それは夏芝居だつた。あの男は唯のペングイン鳥になり、氷山《ひようざん》の間《あひだ》を歩いてゐた。そのうちに烈しい暑さの為にとうとう悶絶《もんぜつ》して死んでしまつた。

     六 東京人

 或|待合《まちあひ》のお上《かみ》さんが一人《ひとり》、懇意な或芸者の為に或出入りの呉服屋へ帯を一本頼んでやつた。扨《さて》その帯が出来上つて見ると、それは註文|主《ぬし》のお上さんには勿論、若い呉服屋の主人にも派手《はで》過ぎると思はずにはゐられぬものだつた。そこでこの呉服屋の主人は何も言はずに二百円の帯を百五十円にをさめることにした。しかしこちらの心もちは相手のお上さんには通じてゐた。
 お上《かみ》さんは金を払つた後《のち》、格別その帯を芸者にも見せずに箪笥《たんす》の中にしまつて置いた。が、芸者は暫くたつてから、「お上さん、あの帯はまだ?」と言つた。お上さんはやむを得ずその帯を見せ、実際は百五十円払つたのに芸者には値段を百二十円に話した。それは芸者の顔色《かほいろ》でも、やはり派手過ぎると思つてゐることは、はつきりお上さんにわかつた為だつた。が、芸者も亦《また》何も言はずにその帯を貰つて帰つた後《のち》、百二十円の金を届けることにした。
 芸者は百二十円と聞いたものの、その帯がもつと高いことは勿論ちやんと承知してゐた。それから彼女自身はしめずに妹にその帯をしめさせることにした。何、莫迦莫迦《ばかばか》しい遠慮ばかりしてゐる?――東京人と云ふものは由来《ゆらい》かう云ふ莫迦莫迦しい遠慮ばかりしてゐる人種なのだよ。

     七 幸福な悲劇

 彼女は彼を愛してゐた。彼も亦《また》彼女を愛してゐた。が、どちらも彼等の気もちを相手に打ち明けるのに臆病だつた。
 彼はその後彼女以外の――仮に3と呼ぶとすれば、3と云ふ女と馴染《なじ》み出した。彼女は彼に反感を生じ、彼以外の――仮に4と呼ぶとすれば、4と云ふ男に馴染み出した。彼は又急に嫉妬を感じ、彼女を4から奪はうとした。彼女も彼と馴染むことは本望《ほんまう》だつたのに違ひなかつた。しかしもうその時には幸福にも――或は不幸にもいつか4に愛を感じてゐた。のみならず更に幸福だつたことには――或はこれも不幸だつたことには彼もい
前へ 次へ
全7ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング