彼は仏頂面《ぶつちやうづら》をしたまま、かう巡査に返事をした。
「わしはあの牛を盗んだから、三箇月も苦役《くえき》をして来たのでせう。して見ればあの牛はわしのものです。それが家へ帰つて見ると、やつぱり隣の小屋にゐましたから、(尤《もつと》も前よりは肥つてゐました。)わしの小屋へ曳いて来ただけですよ。それがどこが悪いのです?」

     十一 嫉妬

「[#底本では起こしのカギがヌケ]わたしはずゐぶん嫉妬深いと見えます。たとへば宿屋に泊まつた時、そこの番頭や女中たちがわたしに愛想《あいそ》よくお時宜《じぎ》をするでせう。それから又|外《ほか》の客が来ると、やはり前と同じやうに愛想よくお時宜をしてゐるでせう。わたしはあれを見てゐると何《なん》だか後《あと》から来た客に反感を持たずにはゐられないのです。」――その癖僕にかう言つた人は僕の知つてゐる人々のうちでも一番温厚な好紳士だつた。

     十二 第一の接吻

 彼は彼女と夫婦になつた後《のち》、彼女に今までの彼に起つた、あらゆる情事を打ち明けることにした。その結果は彼の予想したやうに彼等の幸福を保証することになつた。しかし彼は彼女に[#「に」は底本では「にに」]もたつた一つの情事だけは打ち明けなかつた。それは彼が十八の時、或年上の宿屋の女中と接吻したと云ふことだつた。彼は何もこの情事だけは話すまいと思つた訣《わけ》ではなかつた。唯ちよつとしたことだつた為に話さずとも善《よ》いと思つただけだつた。
 それから二三年たつた後《のち》、彼は何かの話の次手《ついで》にふと彼女にこの情事を話した。すると彼女は顔色《かほいろ》を変へ、「あなたはあたしを欺ましてゐた」と言つた。それは小さい刺《とげ》のやうにいつまでも彼等夫婦の間に波瀾を起す種《たね》になつてしまつた。彼は彼女と喧嘩をした後《のち》、何度もひとりこんなことを考へなければならなかつた。――「俺は余り正直だつたのかしら。それとも又どこか内心には正直になり切らずにゐたのかしら。」

     十三 「いろは字引」にない言葉

 彼はエデインバラに留学中、電車に飛び乗らうとして転《ころ》げ落ち、人事不省《じんじふせい》になつてしまつた。が、病院へかつぎこまれる途中も譫語《うはごと》に英語をしやべつてゐた。彼の健康が恢復した後《のち》、彼の友だちは何げなしに彼にこのことを
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