もっともこの問題はいずれにせよ、とにかく珍竹林《ちんちくりん》主人から聞いた話だけは、三浦の身にとって三考にも四考にも価する事ですから、私はその翌日すぐに手紙をやって、保養がてら約束の釣《つり》に出たいと思う日を知らせました。するとすぐに折り返して、三浦から返事が届きましたが、見るとその日は丁度|十六夜《じゅうろくや》だから、釣よりも月見|旁《かたがた》、日の暮から大川へ舟を出そうと云うのです。勿論私にしても格別釣に執着があった訳でもありませんから、早速彼の発議《ほつぎ》に同意して、当日は兼ねての約束通り柳橋の舟宿《ふなやど》で落合ってから、まだ月の出ない中に、猪牙舟《ちょきぶね》で大川へ漕ぎ出しました。
「あの頃の大川《おおかわ》の夕景色は、たとい昔の風流には及ばなかったかも知れませんが、それでもなお、どこか浮世絵じみた美しさが残っていたものです。現にその日も万八《まんぱち》の下を大川筋へ出て見ますと、大きく墨をなすったような両国橋の欄干《らんかん》が、仲秋のかすかな夕明りを揺《ゆらめ》かしている川波の空に、一反《ひとそ》り反《そ》った一文字を黒々とひき渡して、その上を通る車馬の影が
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