の間も、異様な興奮に動かされながら、『あいつだ。』と呟《つぶや》かずにはいられませんでした。あいつと云うのは別人でもない、三浦の細君の従弟と称する、あの色の浅黒い縞の背広だったのです。ですから私は雨の脚を俥の幌に弾《はじ》きながら、燈火の多い広小路《ひろこうじ》の往来を飛ぶように走って行く間も、あの相乗俥《あいのりぐるま》の中に乗っていた、もう一人の人物を想像して、何度となく恐しい不安の念に脅《おびや》かされました。あれは一体楢山夫人でしたろうか。あるいはまた束髪に薔薇《ばら》の花をさした勝美夫人だったでしょうか。私は独りこのどちらともつかない疑惑に悩まされながら、むしろその疑惑の晴れる事を恐れて、倉皇《そうこう》と俥に身を隠した私自身の臆病な心もちが、腹立たしく思われてなりませんでした。このもう一人の人物が果して三浦の細君だったか、それとも女権論者だったかは、今になってもなお私には解く事の出来ない謎なのです。」
本多子爵《ほんだししゃく》はどこからか、大きな絹の手巾《ハンケチ》を出して、つつましく鼻をかみながら、もう暮色を帯び出した陳列室の中を見廻して、静にまた話を続け始めた。
「
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