か。私はこれを聞いた時には、陽気なるべき献酬《けんしゅう》の間でさえ、もの思わしげな三浦の姿が執念《しゅうね》く眼の前へちらついて、義理にも賑やかな笑い声は立てられなくなってしまいました。が、幸いとドクトルは、早くも私のふさいでいるのに気がついたものと見えて、巧に相手を操《あやつ》りながら、いつか話題を楢山夫人とは全く縁のない方面へ持って行ってくれましたから、私はやっと息をついて、ともかく一座の興を殺《そ》がない程度に、応対を続ける事が出来たのです。しかしその晩は私にとって、どこまでも運悪く出来上っていたのでしょう。女権論者の噂に気を腐らした私が、やがて二人と一しょに席を立って、生稲《いくいね》の玄関から帰りの俥へ乗ろうとしていると、急に一台の相乗俥《あいのりぐるま》が幌《ほろ》を雨に光らせながら、勢いよくそこへ曳《ひ》きこみました。しかも私が俥《くるま》の上へ靴の片足を踏みかけたのと、向うの俥が桐油《とうゆ》を下して、中の一人が沓脱《くつぬ》ぎへ勢いよく飛んで下りたのとが、ほとんど同時だったのです。私はその姿を見るが早いか、素早く幌の下へ身を投じて、車夫が梶棒《かじぼう》を上げる刹那
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