んよりは、寧《むしろ》チヤイルド・ハロルドの一巻を抱いて、遠く万里の孤客となり、骨を異域の土に埋むるの遙《はるか》に慰む可きものあるを信ぜしなり。されど予が身辺の事情は遂に予をして渡英の計画を抛棄《はうき》せしめ、加之《しかのみならず》予が父の病院内に、一個新帰朝のドクトルとして、多数患者の診療に忙殺さる可き、退屈なる椅子に倚《よ》らしめ了《をは》りぬ。
 是に於て予は予の失恋の慰藉《ゐしや》を神に求めたり。当時築地に在住したる英吉利宣教師ヘンリイ・タウンゼンド氏は、この間に於ける予の忘れ難き友人にして、予の明子に対する愛が、幾多の悪戦苦闘の後、漸次《ぜんじ》熱烈にしてしかも静平なる肉親的感情に変化したるは、一《いつ》に同氏が予の為に釈義したる聖書の数章の結果なりき。予は屡《しばしば》、同氏と神を論じ、神の愛を論じ、更に人間の愛を論じたるの後、半夜|行人《かうじん》稀なる築地居留地を歩して、独り予が家に帰りしを記憶す。若し卿等にして予が児女の情あるを哂《わら》はずんば、予は居留地の空なる半輪の月を仰ぎて、私《ひそか》に従妹明子の幸福を神に祈り、感極つて歔欷《きよき》せしを語るも善し。

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