予が愛の新《あらた》なる転向を得しは、所謂《いはゆる》「あきらめ」の心理を以て、説明す可きものなりや否や、予は之を詳《つまびらか》にする勇気と余裕とに乏しけれど、予がこの肉親的愛情によりて、始めて予が心の創痍《さうい》を医し得たるの一事は疑ふ可《べか》らず。是を以て帰朝以来、明子夫妻の消息を耳にするを蛇蝎《だかつ》の如く恐れたる予は、今や予がこの肉親的愛情に依頼し、進んで彼等に接近せん事を希望したり。こは予にして若し彼等に幸福なる夫妻を見出さんか、予の慰安の益《ますます》大にして、念頭|些《いささか》の苦悶なきに至る可しと、早計にも信じたるが故のみ。
予はこの信念に動かされし結果、遂に明治十一年八月三日両国橋畔の大煙火に際し、知人の紹介を機会として、折から校書《かうしよ》十数輩と共に柳橋|万八《まんぱち》の水楼に在りし、明子の夫満村恭平と、始めて一夕《いつせき》の歓《くわん》を倶《とも》にしたり。歓《くわん》か、歓か、予はその苦と云ふの、遙に勝《まさ》れる所以《ゆゑん》を思はざる能はず。予は日記に書して曰《いはく》、「予は明子にして、かの満村某の如き、濫淫の賤貨に妻たるを思へば、殆
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