上の紫藤《しとう》は春日の光りを揺りて垂れ、藤下《とうか》の明子は凝然《ぎようぜん》として彫塑《てうそ》の如く佇《たたず》めり。予はこの画の如き数分の彼女を、今に至つて忘るる能はず。私《ひそか》に自ら省みて、予が心既に深く彼女を愛せるに驚きしも、実にその藤棚の下に於て然りしなり。爾来《じらい》予の明子に対する愛は益《ますます》烈しきを加へ、念々《ねんねん》に彼女を想ひて、殆《ほとんど》学を廃するに至りしも、予の小心なる、遂に一語の予が衷心を吐露す可きものを出さず。陰晴《いんせい》定りなき感情の悲天の下に、或は泣き、或は笑ひて、茫々《ばうばう》数年の年月を閲《けみ》せしが、予の二十一歳に達するや、予が父は突然予に命じて、遠く家業たる医学を英京|竜動《ロンドン》に学ばしめぬ。予は訣別に際して、明子に語るに予が愛を以てせんとせしも、厳粛なる予等が家庭は、斯《かか》る機会を与ふるに吝《やぶさか》なりしと共に、儒教主義の教育を受けたる予も、亦|桑間濮上《さうかんぼくじやう》の譏《そしり》を惧《おそ》れたるを以て、無限の離愁を抱きつつ、孤笈飄然《こきふへうぜん》として英京に去れり。
 英吉利《イギ
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