荏苒《じんぜん》今日に及べり。明子の明眸《めいぼう》、猶六年以前の如くなる可きや否や。
「十月×日、予は今日本多子爵を訪れ、始めて共に明子の家に赴《おもむ》かんとしぬ。然るに豈《あに》計《はか》らんや、子爵は予に先立ちて、既に彼女を見る事両三度なりと云はんには。子爵の予を疎外する、何ぞ斯《か》くの如く甚しきや。予は甚しく不快を感じたるを以て、辞を患者の診察に託し、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]惶《そうくわう》として子爵の家を辞したり。子爵は恐らく予の去りし後、単身明子を訪れしならんか。
「十一月×日、予は本多子爵と共に、明子を訪《と》ひぬ。明子は容色の幾分を減却したれども、猶|紫藤花下《しとうくわか》に立ちし当年の少女を髣髴《はうふつ》するは、未《いまだ》必しも難事にあらず。嗚呼《ああ》予は既に明子を見たり。而して予が胸中、反つて止む可らざる悲哀を感ずるは何ぞ。予はその理由を知らざるに苦む。
「十二月×日、子爵は明子と結婚する意志あるものの如し。斯くして予が明子の夫を殺害したる目的は、始めて完成の域に達するを得ん。されど――されど、予は予が再《ふたたび》明子を失ひつつあるが
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