ありと云ふにあらずや。予は満面の喜色を以て予の患者を診察し、閑《ひま》あれば即《すなはち》本多子爵と共に、好んで劇を新富座に見たり。是全く予にとりては、予が最後の勝利を博せし、光栄ある戦場として、屡《しばしば》その花瓦斯《はなガス》とその掛毛氈《かけまうせん》とを眺めんとする、不思議なる欲望を感ぜしが為のみ。
 然れどもこは真に、数ヶ月の間なりき。この幸福なる数ヶ月の経過すると共に、予は漸次予が生涯中最も憎む可き誘惑と闘ふ可き運命に接近しぬ。その闘《たたかひ》の如何に酷烈を極めたるか、如何に歩々《ほほ》予を死地に駆逐したるか。予は到底|茲《ここ》に叙説するの勇気なし。否、この遺書を認《したた》めつつある現在さへも、予は猶この水蛇《ハイドラ》の如き誘惑と、死を以て闘はざる可らず。卿等にして若し、予が煩悶の跡を見んと欲せば、請ふ、以下に抄録せんとする予が日記を一瞥《いちべつ》せよ。
「十月×日、明子、子なきの故を以て満村家を去る由、予は近日本多子爵と共に、六年ぶりにて彼女と会見す可し。帰朝以来、始《はじめ》予は彼女を見るの己《おのれ》の為に忍びず、後は彼女を見るの彼女の為に忍びずして、遂に
前へ 次へ
全22ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング