如き、異様なる苦痛を免るる事能はず。
「三月×日、子爵と明子との結婚式は、今年年末を期して、挙行せらるべしと云ふ。予はその一日も速《すみやか》ならん事を祈る。現状に於ては、予は永久にこの止み難き苦痛を脱離する能はざる可し。
「六月十二日、予は独り新富座に赴《おもむ》けり。去年今月今日、予が手に仆《たふ》れたる犠牲を思へば、予は観劇中も自《おのづか》ら会心の微笑を禁ぜざりき。されど同座より帰途、予がふと予の殺人の動機に想到するや、予は殆《ほとんど》帰趣《きしゆ》を失ひたるかの感に打たれたり。嗚呼《ああ》、予は誰の為に満村恭平を殺せしか。本多子爵の為か、明子の為か、抑《そ》も亦予自身の為か。こは予も亦答ふる能はざるを如何《いかん》。
「七月×日、予は子爵と明子と共に、今夕馬車を駆つて、隅田川の流燈会《りうとうゑ》を見物せり。馬車の窓より洩るる燈光に、明子の明眸《めいぼう》の更に美しかりしは、殆《ほとんど》予をして傍《かたはら》に子爵あるを忘れしめぬ。されどそは予が語らんとする所にあらず。予は馬車中子爵の胃痛を訴ふるや、手にポケツトを捜《さぐ》りて、丸薬の函《はこ》を得たり。而してその「かの
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