荏苒《じんぜん》今日に及べり。明子の明眸《めいぼう》、猶六年以前の如くなる可きや否や。
「十月×日、予は今日本多子爵を訪れ、始めて共に明子の家に赴《おもむ》かんとしぬ。然るに豈《あに》計《はか》らんや、子爵は予に先立ちて、既に彼女を見る事両三度なりと云はんには。子爵の予を疎外する、何ぞ斯《か》くの如く甚しきや。予は甚しく不快を感じたるを以て、辞を患者の診察に託し、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]惶《そうくわう》として子爵の家を辞したり。子爵は恐らく予の去りし後、単身明子を訪れしならんか。
「十一月×日、予は本多子爵と共に、明子を訪《と》ひぬ。明子は容色の幾分を減却したれども、猶|紫藤花下《しとうくわか》に立ちし当年の少女を髣髴《はうふつ》するは、未《いまだ》必しも難事にあらず。嗚呼《ああ》予は既に明子を見たり。而して予が胸中、反つて止む可らざる悲哀を感ずるは何ぞ。予はその理由を知らざるに苦む。
「十二月×日、子爵は明子と結婚する意志あるものの如し。斯くして予が明子の夫を殺害したる目的は、始めて完成の域に達するを得ん。されど――されど、予は予が再《ふたたび》明子を失ひつつあるが如き、異様なる苦痛を免るる事能はず。
「三月×日、子爵と明子との結婚式は、今年年末を期して、挙行せらるべしと云ふ。予はその一日も速《すみやか》ならん事を祈る。現状に於ては、予は永久にこの止み難き苦痛を脱離する能はざる可し。
「六月十二日、予は独り新富座に赴《おもむ》けり。去年今月今日、予が手に仆《たふ》れたる犠牲を思へば、予は観劇中も自《おのづか》ら会心の微笑を禁ぜざりき。されど同座より帰途、予がふと予の殺人の動機に想到するや、予は殆《ほとんど》帰趣《きしゆ》を失ひたるかの感に打たれたり。嗚呼《ああ》、予は誰の為に満村恭平を殺せしか。本多子爵の為か、明子の為か、抑《そ》も亦予自身の為か。こは予も亦答ふる能はざるを如何《いかん》。
「七月×日、予は子爵と明子と共に、今夕馬車を駆つて、隅田川の流燈会《りうとうゑ》を見物せり。馬車の窓より洩るる燈光に、明子の明眸《めいぼう》の更に美しかりしは、殆《ほとんど》予をして傍《かたはら》に子爵あるを忘れしめぬ。されどそは予が語らんとする所にあらず。予は馬車中子爵の胃痛を訴ふるや、手にポケツトを捜《さぐ》りて、丸薬の函《はこ》を得たり。而してその「かの
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