づこ》たる、時の何時《なんどき》たるを忘却したりき。しかもその彼が且泣き且笑ひつつ、蕭雨《せうう》を犯し泥濘《でいねい》を踏んで、狂せる如く帰途に就きしの時、彼の呟《つぶや》いて止めざりしものは明子の名なりしをも忘るる事勿れ。――「予は終夜眠らずして、予が書斎を徘徊《はいくわい》したり。歓喜か、悲哀か、予はそを明にする能はず。唯、或云ひ難き強烈なる感情は、予の全身を支配して、一霎時《いつせふじ》たりと雖《いへど》も、予をして安坐せざらしむるを如何《いかん》。予が卓上には三鞭酒《シヤンペンしゆ》あり。薔薇の花あり。而して又かの丸薬の箱あり。予は殆《ほとんど》、天使と悪魔とを左右にして、奇怪なる饗宴を開きしが如くなりき……。」
 予は爾来《じらい》数ヶ月の如く、幸福なる日子《につし》を閲《けみ》せし事あらず。満村の死因は警察医によりて、予の予想と寸分の相違もなく、脳出血の病名を与へられ、即刻地下六尺の暗黒に、腐肉を虫蛆《ちうそ》の食としたるが如し。既に然り、誰か又予を目して、殺人犯の嫌疑ありと做《な》すものあらん。しかも仄聞《そくぶん》する所によれば、明子はその良人の死に依りて、始めて蘇色ありと云ふにあらずや。予は満面の喜色を以て予の患者を診察し、閑《ひま》あれば即《すなはち》本多子爵と共に、好んで劇を新富座に見たり。是全く予にとりては、予が最後の勝利を博せし、光栄ある戦場として、屡《しばしば》その花瓦斯《はなガス》とその掛毛氈《かけまうせん》とを眺めんとする、不思議なる欲望を感ぜしが為のみ。
 然れどもこは真に、数ヶ月の間なりき。この幸福なる数ヶ月の経過すると共に、予は漸次予が生涯中最も憎む可き誘惑と闘ふ可き運命に接近しぬ。その闘《たたかひ》の如何に酷烈を極めたるか、如何に歩々《ほほ》予を死地に駆逐したるか。予は到底|茲《ここ》に叙説するの勇気なし。否、この遺書を認《したた》めつつある現在さへも、予は猶この水蛇《ハイドラ》の如き誘惑と、死を以て闘はざる可らず。卿等にして若し、予が煩悶の跡を見んと欲せば、請ふ、以下に抄録せんとする予が日記を一瞥《いちべつ》せよ。
「十月×日、明子、子なきの故を以て満村家を去る由、予は近日本多子爵と共に、六年ぶりにて彼女と会見す可し。帰朝以来、始《はじめ》予は彼女を見るの己《おのれ》の為に忍びず、後は彼女を見るの彼女の為に忍びずして、遂に
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