ものがあるものか。」
「嘘をつき給え。論より証拠はその指環じゃないか。」
 なるほど趙生《ちょうせい》が指さした几《つくえ》の上には、紫金碧甸《しこんへきでん》の指環が一つ、読みさした本の上に転がっている。指環の主は勿論男ではない。が、王生《おうせい》はそれを取り上げると、ちょいと顔を暗くしたが、しかし存外平然と、徐《おもむ》ろにこんな話をし出した。
「僕の鶯鶯なぞと云うものはない。が、僕の恋をしている女はある。僕が去年の秋以来、君たちと太白《たいはく》を挙げなくなったのは、確かにその女が出来たからだ。しかしその女と僕との関係は、君たちが想像しているような、ありふれた才子の情事ではない。こう云ったばかりでは何の事だか、勿論君にはのみこめないだろう。いや、のみこめないばかりなら好《い》いが、あるいは万事が嘘のような疑いを抱きたくなるかも知れない。それでは僕も不本意だから、この際君に一切の事情をすっかり打ち明けてしまおうと思う。退屈でもどうか一通り、その女の話を聞いてくれ給え。
「僕は君が知っている通り、松江《しょうこう》に田を持っている。そうして毎年秋になると、一年の年貢《ねんぐ》を取り
前へ 次へ
全17ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング