「それから急に眼がさめた。眼がさめて見るとさっきの通り、僕は舟の中に眠っている。艙《そう》の外は見渡す限り、茫々とした月夜《つきよ》の水ばかりだ。その時の寂しさは話した所が、天下にわかるものは一人もあるまい。
「それ以来僕の心の中《うち》では、始終あの女の事を思っている。するとまた金陵《きんりょう》へ帰ってからも、不思議に毎晩眠りさえすれば、必ずあの家《うち》が夢に見える。しかも一昨日《おととい》の晩なぞは、僕が女に水晶《すいしょう》の双魚《そうぎょ》の扇墜《せんつい》を贈ったら、女は僕に紫金碧甸《しこんへきでん》の指環を抜いて渡してくれた。と思って眼がさめると、扇墜が見えなくなった代りに、いつか僕の枕もとには、この指環が一つ抜き捨ててある。してみれば女に遇《あ》っているのは、全然夢とばかりも思われない。が、夢でなければ何だと云うと、――僕も答を失してしまう。
「もし仮に夢だとすれば、僕は夢に見るよりほかに、あの家《うち》の娘を見たことはない。いや、娘がいるかどうか、それさえはっきりとは知らずにいる。が、たといその娘が、実際はこの世にいないのにしても、僕が彼女を思う心は、変る時があると
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