は目の前の暗闇の底に、停車場からここへ来る途中の、思いがけない出来事が、もう一度はっきり見えるような気がした。
 ……枝を交《かわ》した松の下には、しっとり砂に露の下りた、細い路が続いている。大空に澄んだ無数の星も、その松の枝の重《かさ》なったここへは、滅多《めった》に光を落して来ない。が、海の近い事は、疎《まばら》な芒《すすき》に流れて来る潮風《しおかぜ》が明かに語っている。陳はさっきからたった一人、夜《よ》と共に強くなった松脂《まつやに》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を嗅ぎながら、こう云う寂しい闇の中に、注意深い歩みを運んでいた。
 その内に彼はふと足を止めると、不審そうに行く手を透《す》かして見た。それは彼の家の煉瓦塀《れんがべい》が、何歩か先に黒々と、現われて来たからばかりではない、その常春藤《きづた》に蔽《おお》われた、古風な塀の見えるあたりに、忍びやかな靴の音が、突然聞え出したからである。
 が、いくら透《すか》して見ても、松や芒の闇が深いせいか、肝腎《かんじん》の姿は見る事が出来ない。ただ、咄嗟《とっさ》に感づいたのは、その足音がこちらへ来ずに
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