ろしく云ってくれ給え。」
 陳は麦藁帽《むぎわらぼう》の庇《ひさし》へ手をやると、吉井が鳥打帽を脱ぐのには眼もかけず、砂利を敷いた構外へ大股《おおまた》に歩み出した。その容子《ようす》が余り無遠慮《ぶえんりょ》すぎたせいか、吉井は陳の後姿《うしろすがた》を見送ったなり、ちょいと両肩を聳《そび》やかせた。が、すぐまた気にも止めないように、軽快な口笛を鳴らしながら、停車場《ていしゃば》前の宿屋の方へ、太い籐の杖を引きずって行った。

 鎌倉。
 一時間の後《のち》陳彩《ちんさい》は、彼等夫婦の寝室の戸へ、盗賊《とうぞく》のように耳を当てながら、じっと容子を窺《うかが》っている彼自身を発見した。寝室の外の廊下には、息のつまるような暗闇が、一面にあたりを封じていた。その中《うち》にただ一点、かすかな明りが見えるのは、戸の向うの電燈の光が、鍵穴《かぎあな》を洩れるそれであった。
 陳はほとんど破裂しそうな心臓の鼓動《こどう》を抑えながら、ぴったり戸へ当てた耳に、全身の注意を集めていた。が、寝室の中からは何の話し声も聞えなかった。その沈黙がまた陳にとっては、一層堪え難い呵責《かしゃく》であった。彼
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