薄暗い壁側《かべぎわ》のベンチに坐っていた、背の高い背広の男が一人、太い籐《とう》の杖《つえ》を引きずりながら、のそのそ陳の側へ歩み寄った。そうして闊達《かったつ》に鳥打帽を脱ぐと、声だけは低く挨拶《あいさつ》をした。
「陳さんですか? 私は吉井《よしい》です。」
陳はほとんど無表情に、じろりと相手の顔を眺めた。
「今日《こんにち》は御苦労でした。」
「先ほど電話をかけましたが、――」
「その後《ご》何もなかったですか?」
陳の語気には、相手の言葉を弾《はじ》き除《の》けるような力があった。
「何もありません。奥さんは医者が帰ってしまうと、日暮までは婆やを相手に、何か話して御出ででした。それから御湯や御食事をすませて、十時頃までは蓄音機《ちくおんき》を御聞きになっていたようです。」
「客は一人も来なかったですか?」
「ええ、一人も。」
「君が監視をやめたのは?」
「十一時二十分です。」
吉井の返答《ことば》もてきぱきしていた。
「その後《ご》終列車まで汽車はないですね。」
「ありません。上《のぼ》りも、下《くだ》りも。」
「いや、難有《ありがと》う。帰ったら里見《さとみ》君に、よ
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