ている。
 房子は全身の戦慄《せんりつ》と闘いながら、手近の壁へ手をのばすと、咄嗟《とっさ》に電燈のスウィッチを捻《ひね》った。と同時に見慣れた寝室は、月明りに交《まじ》った薄暗がりを払って、頼もしい現実へ飛び移った。寝台《しんだい》、西洋※[#「巾+厨」、第4水準2−8−91]《せいようがや》、洗面台、――今はすべてが昼のような光の中に、嬉しいほどはっきり浮き上っている。その上それが何一つ、彼女が陳と結婚した一年以前と変っていない。こう云う幸福な周囲を見れば、どんなに気味の悪い幻《まぼろし》も、――いや、しかし怪しい何物かは、眩《まぶ》しい電燈の光にも恐れず、寸刻もたゆまない凝視の眼を房子の顔に注いでいる。彼女は両手に顔を隠すが早いか、無我夢中に叫ぼうとした。が、なぜか声が立たない。その時彼女の心の上には、あらゆる経験を超越した恐怖が、……
 房子は一週間以前の記憶から、吐息《といき》と一しょに解放された。その拍子に膝《ひざ》の三毛猫は、彼女の膝を飛び下りると、毛並みの美しい背を高くして、快さそうに欠伸《あくび》をした。
「そんな気は誰でも致すものでございますよ。爺《じい》やなどはい
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