である」と云つた。ではなぜどちらも絶望であるか? これは僕の厭世《えんせい》主義の「かも知れない」を「である」と云ひ切らせたのである。君は僕を憐んだのか、不幸にもこの虚を衝《つ》かなかつた。論敵に憐まれる不愉快は夙《つと》に君も知つてゐる筈である。もし君との論戦の中に少しでも敵意を感じたとすれば、この点だけは実に業腹《ごふはら》だつた。以上。

     二

 新潮二月号所載|藤森淳三《ふじもりじゆんざう》氏の文(宇野浩二《うのかうじ》氏の作と人とに関する)によれば、宇野氏は当初軽蔑してゐた里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]《さとみとん》氏や芥川龍之介《あくたがはりゆうのすけ》に、色目《いろめ》を使ふやうになつたさうである。が、里見氏は姑《しばら》く問はず、事の僕に関する限り、藤森氏の言は当つてゐない。宇野氏も色目を使つたかも知れぬが、僕も又盛に色目を使つた。いや、僕自身の感じを云へば、寧《むし》ろ色目を使つたのは僕ばかりのやうにも思はれるのである。
 藤森氏の文は大家《たいか》たる宇野氏に何《なん》の痛痒《つうやう》も与へぬであらう。だから僕は宇野氏の為にこの文を艸《さ
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