のではない。観潮楼《くわんてうろう》や、断腸亭《だんちやうてう》や、漱石《そうせき》や、あれはあれで打ち留《ど》めにして置いて、岡栄一郎《をかえいいちらう》氏、佐佐木味津三《ささきみつざう》氏などの随筆でも、それはそれで新らしい時代の随筆で結構ではないか。」君の言に賛成する為にはまづ「硝子戸の中」と岡、佐佐木両氏の随筆との差を時代の差ばかりにしてしまはなければならぬ。それはまあ日ごろ敬愛する両氏のことでもあるしするから、時代の差ばかりにしても差支《さしつか》へはない。が、大義の存する所、親《しん》を滅するを顧みなければ、必《かならず》しもさうばかりは云はれぬやうである。況《いはん》や両氏の作品にもはるかに及ばない随筆には如何《いか》に君に促《いなが》されたにもせよ、到底《たうてい》讃辞を奉ることは出来ない。(次手《ついで》にちよつとつけ加へれば、中村君は古人の随筆の佳所と君の所謂《いはゆる》「古来の風趣《ふうしゆ》」とを同一視してゐるやうである。が、僕の「枕の草紙」を愛するのは「古来の風趣」を愛するのではない。少くとも「古来の風趣」ばかりを愛してゐないのは確かである。)
 最後に君は「
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