《さしつか》へないのである」と云つてゐる。芸術は御裁可《ごさいか》に及ばずとも、変遷してしまふのに違ひない。その点は君に同感である。が、同感であると云ふ意味は必《かならず》しも各時代の芸術を、いづれもその時代の芸術であるから、平等に認めると云ふ意味ではない。レオナルド・ダ・ヴインチの作品は十五世紀の伊太利《イタリイ》の芸術である、未来派の画家の作品は二十世紀の伊太利の芸術である。しかしどちらも同様に尊敬するなどと云ふことは、――これは勿論|断《ことわ》らずとも、当然中村君も同感であらう。
しかし又君はかう云つてゐる。「それと同じやうに、随筆だつて、やつぱり「枕の草紙」とか、「つれづれ草」とか、清少納言《せいせうなごん》や兼好法師《けんかうほふし》の生きた時代には、ああした随筆が生れ、また現在の時代には、現在の時代に適応した随筆の出現するのは已《や》むを得ない。(僕|曰《いはく》、勿論である)夏目漱石《なつめそうせき》の「硝子戸の中」なども、芸術的小品として、随筆の上乗《じやうじよう》なるものだと思ふ。(僕|曰《いはく》、頗《すこぶ》る僕も同感である)ああ云ふのはなかなか容易に望めるも
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