ら一月とたたないうちに今度はせっかくの腕時計や背広までも売るようになって来ました。ではその金はどうしたかと言えば、前後の分別《ふんべつ》も何もなしにお松につぎこんでしまったのです。が、お松も半之丞に使わせていたばかりではありません。やはり「お」の字のお上《かみ》の話によれば、元来この町の達磨茶屋《だるまぢゃや》の女は年々|夷講《えびすこう》の晩になると、客をとらずに内輪《うちわ》ばかりで三味線《しゃみせん》を弾《ひ》いたり踊ったりする、その割《わ》り前《まえ》の算段さえ一時はお松には苦しかったそうです。しかし半之丞もお松にはよほど夢中になっていたのでしょう。何しろお松は癇癪《かんしゃく》を起すと、半之丞の胸《むな》ぐらをとって引きずり倒し、麦酒罎《ビールびん》で擲《なぐ》りなどもしたものです。けれども半之丞はどう言う目に遇《あ》っても、たいていは却《かえ》って機嫌《きげん》をとっていました。もっとも前後にたった一度、お松がある別荘番の倅《せがれ》と「お」の字町へ行ったとか聞いた時には別人のように怒《おこ》ったそうです。これもあるいは幾分か誇張があるかも知れません。けれども婆《ばあ》さん
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