に驚いたと言うことです。のみならず半之丞は上さんの言葉にうんだともつぶれたとも返事をしない、ただ薄暗い湯気《ゆげ》の中にまっ赤になった顔だけ露《あら》わしている、それも瞬《またた》き一つせずにじっと屋根裏の電燈を眺めていたと言うのですから、無気味《ぶきみ》だったのに違いありません。上さんはそのために長湯《ながゆ》も出来ず、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》風呂を出てしまったそうです。
 共同風呂のまん中には「独鈷《とっこ》の湯」の名前を生じた、大きい石の独鈷があります。半之丞はこの独鈷の前にちゃんと着物を袖《そで》だたみにし、遺書は側《そば》の下駄《げた》の鼻緒《はなお》に括《くく》りつけてあったと言うことです。何しろ死体は裸のまま、温泉の中に浮いていたのですから、若しその遺書でもなかったとすれば、恐らくは自殺かどうかさえわからずにしまったことでしょう。わたしの宿の主人の話によれば、半之丞がこう言う死にかたをしたのは苟《いやし》くも「た」の字病院へ売り渡した以上、解剖《かいぼう》用の体に傷をつけてはすまないと思ったからに違いないそうです。もっともこれがあの町の定説
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