ったのかも知れません。しかし勿論《もちろん》「青ペン」の女は笑って通り過ぎたと言うことです。「ふ」の字軒の主人も、――いや、「ふ」の字軒の主人は笑ううちにも「縁起《えんぎ》でもねえ」と思ったと言っていました。
 それから幾日もたたないうちに半之丞は急に自殺したのです。そのまた自殺も首を縊《くく》ったとか、喉《のど》を突いたとか言うのではありません。「か」の字川の瀬の中に板囲《いたがこ》いをした、「独鈷《とっこ》の湯」と言う共同風呂がある、その温泉の石槽《いしぶね》の中にまる一晩沈んでいた揚句《あげく》、心臓痲痺《しんぞうまひ》を起して死んだのです。やはり「ふ」の字軒の主人の話によれば、隣《となり》の煙草屋の上《かみ》さんが一人、当夜かれこれ十二時頃に共同風呂へはいりに行きました。この煙草屋の上さんは血の道か何かだったものですから、宵のうちにもそこへ来ていたのです。半之丞はその時も温泉の中に大きな体を沈めていました。が、今もまだはいっている、これにはふだんまっ昼間《ぴるま》でも湯巻《ゆまき》一つになったまま、川の中の石伝《いしづた》いに風呂へ這《は》って来る女丈夫《じょじょうぶ》もさすが
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