らもる灯さへない。丁度、月はあるが、ぼんやりと曇つた夜で、ひつそりした畑のそこここには、あの紫の花が、心ぼそくうす暗い中に、ほのめいてゐる。元来、牛商人は、覚束《おぼつか》ないながら、一策を思ひついて、やつとここまで、忍んで来たのであるが、このしんとした景色を見ると、何となく恐しくなつて、いつそ、このまま帰つてしまはうかと云ふ気にもなつた。殊に、あの戸の後では、山羊のやうな角のある先生が、因辺留濃《いんへるの》の夢でも見てゐるのだと思ふと、折角、はりつめた勇気も、意気地なく、くじけてしまふ。が、体と魂とを、「ぢやぼ」の手に、渡す事を思へば、勿論、弱い音《ね》なぞを吐いてゐるべき場合ではない。
 そこで、牛商人は、毘留善麻利耶《びるぜんまりや》の加護を願ひながら、思ひ切つて、予《あらかじめ》、もくろんで置いた計画を、実行した。計画と云ふのは、別でもない。――ひいて来た黄牛の綱《はづな》を解いて、尻をつよく打ちながら、例の畑へ勢よく追ひこんでやつたのである。
 牛は、打たれた尻の痛さに、跳ね上りながら、柵を破つて、畑をふみ荒らした。角を家の板目《はめ》につきかけた事も、一度や二度ではない。
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