ではなかつた。況《いはん》や村の若衆などの「若い小母《をば》さん」ではなほ更なかつた。その代りに嫁の手本だつた。今の世の貞女の鑑《かがみ》だつた。「沢向うのお民さんを見ろ。」――さう云ふ言葉は小言と一しよに誰の口からも出る位だつた。お住は彼女の苦しみを隣の婆さんにさへ訴へなかつた。訴へたいとも亦思はなかつた。しかし彼女の心の底に、はつきり意識しなかつたにしろ、何処《どこ》か天道を当《あて》にしてゐた。その頼みもとうとう水の泡になつた。今はもう孫の広次より外に頼みになるものは一つもなかつた。お住は十二三になつた孫へ必死の愛を傾けかけた。けれどもこの最後の頼みも途絶《とだ》えさうになることは度たびだつた。
或秋晴のつづいた午後、本包みを抱へた孫の広次は、あたふた学校から帰つて来た。お住は丁度納屋の前に器用に庖丁を動かしながら、蜂屋柿を吊し柿に拵《こしら》へてゐた。広次は粟の籾《もみ》を干した筵《むしろ》を身軽に一枚飛び越えたと思ふと、ちやんと両足を揃へたまま、ちよつと祖母に挙手の礼をした。それから何の次穂《つぎほ》もなしに、かう真面目に尋ねかけた。
「ねえ、おばあさん。おらのお母さんはう
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