兵衛の寺詣《てらもう》でに気づかなかった事を口惜《くちお》しく思った。「もう八日《ようか》経てば、大檀那様《おおだんなさま》の御命日でございます。御命日に敵が打てますのも、何かの因縁でございましょう。」――喜三郎はこう云って、この喜ばしい話を終った。そんな心もちは甚太夫にもあった。二人はそれから行燈《あんどう》を囲んで、夜もすがら左近や加納親子の追憶をさまざま語り合った。が、彼等の菩提《ぼだい》を弔《とむら》っている兵衛の心を酌《く》む事なぞは、二人とも全然忘却していた。
 平太郎の命日は、一日毎に近づいて来た。二人は妬刃《ねたば》を合せながら、心|静《しずか》にその日を待った。今はもう敵打《かたきうち》は、成否の問題ではなくなっていた。すべての懸案はただその日、ただその時刻だけであった。甚太夫は本望《ほんもう》を遂《と》げた後《のち》の、逃《の》き口《くち》まで思い定めていた。
 ついにその日の朝が来た。二人はまだ天が明けない内に、行燈《あんどう》の光で身仕度をした。甚太夫は菖蒲革《しょうぶがわ》の裁付《たっつけ》に黒紬《くろつむぎ》の袷《あわせ》を重ねて、同じ紬の紋付の羽織の下に細
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