う百日紅《ひゃくじつこう》の花が散って、踏石《ふみいし》に落ちる日の光も次第に弱くなり始めた。二人は苦しい焦燥の中に、三年以前返り打に遇った左近の祥月命日《しょうつきめいにち》を迎えた。喜三郎はその夜《よ》、近くにある祥光院《しょうこういん》の門を敲《たた》いて和尚《おしょう》に仏事を修して貰った。が、万一を慮《おもんぱか》って、左近の俗名《ぞくみょう》は洩《も》らさずにいた。すると寺の本堂に、意外にも左近と平太郎との俗名を記した位牌《いはい》があった。喜三郎は仏事が終ってから、何気《なにげ》ない風を装《よそお》って、所化《しょけ》にその位牌の由縁《ゆかり》を尋ねた。ところがさらに意外な事には、祥光院の檀家たる恩地小左衛門のかかり人《びと》が、月に二度の命日には必ず回向《えこう》に来ると云う答があった。「今日も早くに見えました。」――所化は何も気がつかないように、こんな事までもつけ加えた。喜三郎は寺の門を出ながら、加納《かのう》親子や左近の霊が彼等に冥助《みょうじょ》を与えているような、気強さを感ぜずにはいられなかった。
 甚太夫は喜三郎の話を聞きながら、天運の到来を祝すと共に、今まで
前へ 次へ
全25ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング