じゃく》多病につき、敵打の本懐も遂げ難きやに存ぜられ候間《そうろうあいだ》……」――これがその仔細の全部であった。しかし血に染んだ遺書の中には、もう一通の書面が巻きこんであった。甚太夫はこの書面へ眼を通すと、おもむろに行燈をひき寄せて、燈心《とうしん》の火をそれへ移した。火はめらめらと紙を焼いて、甚太夫の苦《にが》い顔を照らした。
書面は求馬が今年《ことし》の春、楓《かえで》と二世《にせ》の約束をした起請文《きしょうもん》の一枚であった。
三
寛文《かんぶん》十年の夏、甚太夫《じんだゆう》は喜三郎《きさぶろう》と共に、雲州松江の城下へはいった。始めて大橋《おおはし》の上に立って、宍道湖《しんじこ》の天に群《むらが》っている雲の峰を眺めた時、二人の心には云い合せたように、悲壮な感激が催された。考えて見れば一行は、故郷の熊本を後にしてから、ちょうどこれで旅の空に四度目の夏を迎えるのであった。
彼等はまず京橋《きょうばし》界隈《かいわい》の旅籠《はたご》に宿を定めると、翌日からすぐに例のごとく、敵の所在を窺い始めた。するとそろそろ秋が立つ頃になって、やはり松平家《まつだいらけ》の侍に不伝流《ふでんりゅう》の指南をしている、恩地小左衛門《おんちこざえもん》と云う侍の屋敷に、兵衛《ひょうえ》らしい侍のかくまわれている事が明かになった。二人は今度こそ本望が達せられると思った。いや、達せずには置かないと思った。殊に甚太夫はそれがわかった日から、時々心頭に抑え難い怒と喜を感ぜずにはいられなかった。兵衛はすでに平太郎《へいたろう》一人の敵《かたき》ではなく、左近《さこん》の敵でもあれば、求馬《もとめ》の敵でもあった。が、それよりも先にこの三年間、彼に幾多の艱難を嘗《な》めさせた彼自身の怨敵《おんてき》であった。――甚太夫はそう思うと、日頃沈着な彼にも似合わず、すぐさま恩地の屋敷へ踏みこんで、勝負を決したいような心もちさえした。
しかし恩地小左衛門は、山陰《さんいん》に名だたる剣客であった。それだけにまた彼の手足《しゅそく》となる門弟の数も多かった。甚太夫はそこで惴《はや》りながらも、兵衛が一人外出する機会を待たなければならなかった。
機会は容易に来なかった。兵衛はほとんど昼夜とも、屋敷にとじこもっているらしかった。その内に彼等の旅籠《はたご》の庭には、もう百日紅《ひゃくじつこう》の花が散って、踏石《ふみいし》に落ちる日の光も次第に弱くなり始めた。二人は苦しい焦燥の中に、三年以前返り打に遇った左近の祥月命日《しょうつきめいにち》を迎えた。喜三郎はその夜《よ》、近くにある祥光院《しょうこういん》の門を敲《たた》いて和尚《おしょう》に仏事を修して貰った。が、万一を慮《おもんぱか》って、左近の俗名《ぞくみょう》は洩《も》らさずにいた。すると寺の本堂に、意外にも左近と平太郎との俗名を記した位牌《いはい》があった。喜三郎は仏事が終ってから、何気《なにげ》ない風を装《よそお》って、所化《しょけ》にその位牌の由縁《ゆかり》を尋ねた。ところがさらに意外な事には、祥光院の檀家たる恩地小左衛門のかかり人《びと》が、月に二度の命日には必ず回向《えこう》に来ると云う答があった。「今日も早くに見えました。」――所化は何も気がつかないように、こんな事までもつけ加えた。喜三郎は寺の門を出ながら、加納《かのう》親子や左近の霊が彼等に冥助《みょうじょ》を与えているような、気強さを感ぜずにはいられなかった。
甚太夫は喜三郎の話を聞きながら、天運の到来を祝すと共に、今まで兵衛の寺詣《てらもう》でに気づかなかった事を口惜《くちお》しく思った。「もう八日《ようか》経てば、大檀那様《おおだんなさま》の御命日でございます。御命日に敵が打てますのも、何かの因縁でございましょう。」――喜三郎はこう云って、この喜ばしい話を終った。そんな心もちは甚太夫にもあった。二人はそれから行燈《あんどう》を囲んで、夜もすがら左近や加納親子の追憶をさまざま語り合った。が、彼等の菩提《ぼだい》を弔《とむら》っている兵衛の心を酌《く》む事なぞは、二人とも全然忘却していた。
平太郎の命日は、一日毎に近づいて来た。二人は妬刃《ねたば》を合せながら、心|静《しずか》にその日を待った。今はもう敵打《かたきうち》は、成否の問題ではなくなっていた。すべての懸案はただその日、ただその時刻だけであった。甚太夫は本望《ほんもう》を遂《と》げた後《のち》の、逃《の》き口《くち》まで思い定めていた。
ついにその日の朝が来た。二人はまだ天が明けない内に、行燈《あんどう》の光で身仕度をした。甚太夫は菖蒲革《しょうぶがわ》の裁付《たっつけ》に黒紬《くろつむぎ》の袷《あわせ》を重ねて、同じ紬の紋付の羽織の下に細
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