い革の襷《たすき》をかけた。差料《さしりょう》は長谷部則長《はせべのりなが》の刀に来国俊《らいくにとし》の脇差《わきざ》しであった。喜三郎も羽織は着なかったが、肌《はだ》には着込みを纏《まと》っていた。二人は冷酒《ひやざけ》の盃を換《か》わしてから、今日までの勘定をすませた後、勢いよく旅籠《はたご》の門《かど》を出た。
外はまだ人通りがなかった。二人はそれでも編笠に顔を包んで、兼ねて敵打の場所と定めた祥光院《しょうこういん》の門前へ向った。ところが宿を離れて一二町行くと、甚太夫は急に足を止めて、「待てよ。今朝《けさ》の勘定は四文《しもん》釣銭が足らなかった。おれはこれから引き返して、釣銭の残りを取って来るわ。」と云った。喜三郎はもどかしそうに、「高《たか》が四文のはした銭《ぜに》ではございませんか。御戻りになるがものはございますまい。」と云って、一刻も早く鼻の先の祥光院まで行っていようとした。しかし甚太夫は聞かなかった。「鳥目《ちょうもく》は元より惜しくはない。だが甚太夫ほどの侍も、敵打の前にはうろたえて、旅籠の勘定を誤ったとあっては、末代《まつだい》までの恥辱になるわ。その方は一足先へ参れ。身どもは宿まで取って返そう。」――彼はこう云い放って、一人旅籠へ引き返した。喜三郎は甚太夫の覚悟に感服しながら、云われた通り自分だけ敵打の場所へ急いだ。
が、ほどなく甚太夫も、祥光院の門前に待っていた喜三郎と一しょになった。その日は薄雲が空に迷って、朧《おぼろ》げな日ざしはありながら、時々雨の降る天気であった。二人は両方に立ち別れて、棗《なつめ》の葉が黄ばんでいる寺の塀外《へいそと》を徘徊《はいかい》しながら、勇んで兵衛の参詣を待った。
しかしかれこれ午《ひる》近くなっても、未《いまだ》に兵衛は見えなかった。喜三郎はいら立って、さりげなく彼の参詣の有無を寺の門番に尋ねて見た。が、門番の答にも、やはり今日はどうしたのだか、まだ参られぬと云う事であった。
二人は惴《はや》る心を静めて、じっと寺の外に立っていた。その間に時は用捨なく移って、やがて夕暮の色と共に、棗の実を食《は》み落す鴉《からす》の声が、寂しく空に響くようになった。喜三郎は気を揉《も》んで、甚太夫の側へ寄ると、「一そ恩地の屋敷の外へ参って居りましょうか。」と囁いた。が、甚太夫は頭《かしら》を振って、許す気色《けしき》も見せなかった。
やがて寺の門の空には、這《は》い塞《ふさが》った雲の間に、疎《まばら》な星影がちらつき出した。けれども甚太夫は塀に身を寄せて、執念《しゅうね》く兵衛を待ち続けた。実際敵を持つ兵衛の身としては、夜更《よふ》けに人知れず仏参をすます事がないとも限らなかった。
とうとう初夜《しょや》の鐘が鳴った。それから二更《にこう》の鐘が鳴った。二人は露に濡れながら、まだ寺のほとりを去らずにいた。
が、兵衛はいつまで経っても、ついに姿を現さなかった。
大団円
甚太夫《じんだゆう》主従は宿を変えて、さらに兵衛《ひょうえ》をつけ狙った。が、その後《ご》四五日すると、甚太夫は突然真夜中から、烈しい吐瀉《としゃ》を催し出した。喜三郎《きさぶろう》は心配の余り、すぐにも医者を迎えたかったが、病人は大事の洩れるのを惧《おそ》れて、どうしてもそれを許さなかった。
甚太夫は枕に沈んだまま、買い薬を命に日を送った。しかし吐瀉は止まなかった。喜三郎はとうとう堪え兼ねて、一応医者の診脈《しんみゃく》を請うべく、ようやく病人を納得させた。そこで取りあえず旅籠《はたご》の主人に、かかりつけの医者を迎えて貰った。主人はすぐに人を走らせて、近くに技《ぎ》を売っている、松木蘭袋《まつきらんたい》と云う医者を呼びにやった。
蘭袋は向井霊蘭《むかいれいらん》の門に学んだ、神方《しんぽう》の名の高い人物であった。が、一方また豪傑肌《ごうけつはだ》の所もあって、日夜|杯《さかずき》に親みながらさらに黄白《こうはく》を意としなかった。「天雲《あまぐも》の上をかけるも谷水をわたるも鶴《つる》のつとめなりけり」――こう自《みずか》ら歌ったほど、彼の薬を請うものは、上《かみ》は一藩の老職から、下《しも》は露命も繋《つな》ぎ難い乞食《こじき》非人《ひにん》にまで及んでいた。
蘭袋は甚太夫の脈をとって見るまでもなく、痢病《りびょう》と云う見立てを下《くだ》した。しかしこの名医の薬を飲むようになってもやはり甚太夫の病は癒《なお》らなかった。喜三郎は看病の傍《かたわら》、ひたすら諸々《もろもろ》の仏神に甚太夫の快方を祈願した。病人も夜長の枕元に薬を煮《に》る煙を嗅《か》ぎながら、多年の本望を遂げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。
秋は益《ますます》深くなった。喜三郎は蘭袋の家
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