或敵打の話
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)肥後《ひご》の細川家《ほそかわけ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)以前|日向《ひゅうが》の伊藤家

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正九年四月)
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     発端

 肥後《ひご》の細川家《ほそかわけ》の家中《かちゅう》に、田岡甚太夫《たおかじんだゆう》と云う侍《さむらい》がいた。これは以前|日向《ひゅうが》の伊藤家の浪人であったが、当時細川家の番頭《ばんがしら》に陞《のぼ》っていた内藤三左衛門《ないとうさんざえもん》の推薦で、新知《しんち》百五十|石《こく》に召し出されたのであった。
 ところが寛文《かんぶん》七年の春、家中《かちゅう》の武芸の仕合《しあい》があった時、彼は表芸《おもてげい》の槍術《そうじゅつ》で、相手になった侍を六人まで突き倒した。その仕合には、越中守《えっちゅうのかみ》綱利《つなとし》自身も、老職一同と共に臨んでいたが、余り甚太夫の槍が見事なので、さらに剣術の仕合をも所望《しょもう》した。甚太夫は竹刀《しない》を執《と》って、また三人の侍を打ち据えた。四人目には家中の若侍に、新陰流《しんかげりゅう》の剣術を指南している瀬沼兵衛《せぬまひょうえ》が相手になった。甚太夫は指南番の面目《めんぼく》を思って、兵衛に勝を譲ろうと思った。が、勝を譲ったと云う事が、心あるものには分るように、手際よく負けたいと云う気もないではなかった。兵衛は甚太夫と立合いながら、そう云う心もちを直覚すると、急に相手が憎《にく》くなった。そこで甚太夫がわざと受太刀《うけだち》になった時、奮然と一本突きを入れた。甚太夫は強く喉《のど》を突かれて、仰向《あおむ》けにそこへ倒れてしまった。その容子《ようす》がいかにも見苦しかった。綱利《つなとし》は彼の槍術を賞しながら、この勝負があった後《のち》は、甚《はなはだ》不興気《ふきょうげ》な顔をしたまま、一言《いちごん》も彼を犒《ねぎら》わなかった。
 甚太夫の負けざまは、間もなく蔭口《かげぐち》の的になった。「甚太夫は戦場へ出て、槍の柄を切り折られたら何とする。可哀《かわい》や剣術は竹刀《しない》さえ、一人前には使えないそうな。」――こんな噂《うわさ》が誰云うとなく、たちまち家中《かちゅう》に広まったのであった。それには勿論同輩の嫉妬《しっと》や羨望《せんぼう》も交《まじ》っていた。が、彼を推挙した内藤三左衛門《ないとうさんざえもん》の身になって見ると、綱利の手前へ対しても黙っている訳には行かなかった。そこで彼は甚太夫を呼んで、「ああ云う見苦しい負を取られては、拙者の眼がね違いばかりではすまされぬ。改めて三本勝負を致されるか、それとも拙者が殿への申訳けに切腹しようか。」とまで激語した。家中の噂を聞き流していたのでは、甚太夫も武士が立たなかった。彼はすぐに三左衛門の意を帯して、改めて指南番|瀬沼兵衛《せぬまひょうえ》と三本勝負をしたいと云う願書《ねがいしょ》を出した。
 日ならず二人は綱利の前で、晴れの仕合《しあい》をする事になった。始《はじめ》は甚太夫が兵衛の小手《こて》を打った。二度目は兵衛が甚太夫の面《めん》を打った。が、三度目にはまた甚太夫が、したたか兵衛の小手を打った。綱利は甚太夫を賞するために、五十|石《こく》の加増を命じた。兵衛は蚯蚓腫《みみずばれ》になった腕を撫《な》でながら、悄々《すごすご》綱利の前を退いた。
 それから三四日経ったある雨の夜《よ》、加納平太郎《かのうへいたろう》と云う同|家中《かちゅう》の侍が、西岸寺《さいがんじ》の塀外《へいそと》で暗打ちに遇《あ》った。平太郎は知行《ちぎょう》二百石の側役《そばやく》で、算筆《さんぴつ》に達した老人であったが、平生《へいぜい》の行状から推して見ても、恨《うらみ》を受けるような人物では決してなかった。が、翌日瀬沼兵衛の逐天《ちくてん》した事が知れると共に、始めてその敵《かたき》が明かになった。甚太夫と平太郎とは、年輩こそかなり違っていたが、背恰好《せいかっこう》はよく似寄っていた。その上|定紋《じょうもん》は二人とも、同じ丸に抱《だ》き明姜《みょうが》であった。兵衛はまず供の仲間《ちゅうげん》が、雨の夜路を照らしている提灯《ちょうちん》の紋に欺《あざむ》かれ、それから合羽《かっぱ》に傘《かさ》をかざした平太郎の姿に欺かれて、粗忽《そこつ》にもこの老人を甚太夫と誤って殺したのであった。
 平太郎には当時十七歳の、求馬《もとめ》と云う嫡子《ちゃくし》があった。求馬は早速|公《おおやけ》の許《ゆるし》を得て、江越喜三郎《えごしきさぶろう》と云う若党と共に、当時の武士の習慣通
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