笠をかなぐり捨てるが早いか、「瀬沼兵衛《せぬまひょうえ》、加納求馬《かのうもとめ》が兄分、津崎左近が助太刀《すけだち》覚えたか。」と呼びかけながら、刀を抜き放って飛びかかった。が、相手は編笠をかぶったまま、騒ぐ気色もなく左近を見て、「うろたえ者め。人違いをするな。」と叱りつけた。左近は思わず躊躇《ちゅうちょ》した。その途端に侍の手が刀の柄前《つかまえ》にかかったと思うと、重《かさ》ね厚《あつ》の大刀が大袈裟《おおげさ》に左近を斬り倒した。左近は尻居に倒れながら、目深《まぶか》くかぶった編笠の下に、始めて瀬沼兵衛の顔をはっきり見る事が出来たのであった。
二
左近《さこん》を打たせた三人の侍は、それからかれこれ二年間、敵《かたき》兵衛《ひょうえ》の行《ゆ》く方《え》を探って、五畿内《ごきない》から東海道をほとんど隈《くま》なく遍歴した。が、兵衛の消息は、杳《よう》として再び聞えなかった。
寛文《かんぶん》九年の秋、一行は落ちかかる雁《かり》と共に、始めて江戸の土を踏んだ。江戸は諸国の老若貴賤《ろうにゃくきせん》が集まっている所だけに、敵の手がかりを尋ねるのにも、何かと便宜が多そうであった。そこで彼等はまず神田の裏町《うらまち》に仮の宿を定めてから甚太夫《じんだゆう》は怪しい謡《うたい》を唱って合力《ごうりき》を請う浪人になり、求馬《もとめ》は小間物《こまもの》の箱を背負《せお》って町家《ちょうか》を廻る商人《あきゅうど》に化け、喜三郎《きさぶろう》は旗本《はたもと》能勢惣右衛門《のせそうえもん》へ年期切《ねんきぎ》りの草履取《ぞうりと》りにはいった。
求馬は甚太夫とは別々に、毎日府内をさまよって歩いた。物慣れた甚太夫は破れ扇に鳥目《ちょうもく》を貰いながら、根気よく盛り場を窺《うかが》いまわって、さらに倦《う》む気色《けしき》も示さなかった。が、年若な求馬の心は、編笠に憔《やつ》れた顔を隠して、秋晴れの日本橋《にほんばし》を渡る時でも、結局彼等の敵打《かたきうち》は徒労に終ってしまいそうな寂しさに沈み勝ちであった。
その内に筑波颪《つくばおろ》しがだんだん寒さを加え出すと、求馬は風邪《かぜ》が元になって、時々熱が昂《たか》ぶるようになった。が、彼は悪感《おかん》を冒しても、やはり日毎に荷を負うて、商《あきない》に出る事を止めなかった。甚太夫は喜三郎の顔を見ると、必ず求馬のけなげさを語って、この主《しゅう》思いの若党の眼に涙を催させるのが常であった。しかし彼等は二人とも、病さえ静に養うに堪えない求馬の寂しさには気がつかなかった。
やがて寛文十年の春が来た。求馬はその頃から人知れず、吉原の廓《くるわ》に通い出した。相方《あいかた》は和泉屋《いずみや》の楓《かえで》と云う、所謂《いわゆる》散茶女郎《さんちゃじょろう》の一人であった。が、彼女は勤めを離れて、心から求馬のために尽した。彼も楓のもとへ通っている内だけ、わずかに落莫とした心もちから、自由になる事が出来たのであった。
渋谷《しぶや》の金王桜《こんおうざくら》の評判が、洗湯《せんとう》の二階に賑わう頃、彼は楓の真心に感じて、とうとう敵打《かたきうち》の大事を打ち明けた。すると思いがけなく彼女の口から、兵衛らしい侍が松江《まつえ》藩の侍たちと一しょに、一月《ひとつき》ばかり以前和泉屋へ遊びに来たと云う事がわかった。幸《さいわい》、その侍の相方《あいかた》の籤《くじ》を引いた楓は、面体《めんてい》から持ち物まで、かなりはっきりした記憶を持っていた。のみならず彼が二三日|中《うち》に、江戸を立って雲州《うんしゅう》松江《まつえ》へ赴《おもむ》こうとしている事なぞも、ちらりと小耳《こみみ》に挟んでいた。求馬は勿論喜んだ。が、再び敵打の旅に上るために、楓と当分――あるいは永久に別れなければならない事を思うと、自然求馬の心は勇まなかった。彼はその日彼女を相手に、いつもに似合わず爛酔《らんすい》した。そうして宿へ帰って来ると、すぐに夥《おびただ》しく血を吐いた。
求馬は翌日から枕についた。が、何故《なぜ》か敵《かたき》の行方《ゆくえ》が略《ほぼ》わかった事は、一言《ひとこと》も甚太夫には話さなかった。甚太夫は袖乞《そでご》いに出る合い間を見ては、求馬の看病にも心を尽した。ところがある日|葺屋町《ふきやちょう》の芝居小屋などを徘徊《はいかい》して、暮方宿へ帰って見ると、求馬は遺書を啣《くわ》えたまま、もう火のはいった行燈《あんどう》の前に、刀を腹へ突き立てて、無残な最後を遂げていた。甚太夫はさすがに仰天《ぎょうてん》しながら、ともかくもその遺書を開いて見た。遺書には敵の消息と自刃《じじん》の仔細《しさい》とが認《したた》めてあった。「私儀《わたくしぎ》柔弱《にゅう
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