力を尽して、自分の部屋へ駈けて帰つて来た。帰ると、王は卒倒した。そして傷口が又開いてしまつたのである。

       四

 王は三週間人事不省のまま横はつてゐたが、二十二日目に人心地がついて、メンケラと共に看病してゐたセムボビチスの手をとつた。王は泣きながらかう云ふのである。
『お前たち、お前たちは何と云ふ仕合せなのだらう。一人は年をとつてゐるし、一人は年よりも同じ事ではないか。けれども此世には幸福と云ふものは無い。皆悪いものばかりだ。何故と云ふがいい。恋も禍ならバルキスも不貞ではないか。』
『智慧は幸福を与へまする』とセムボビチスは答へた。
『己もさうして見ようと思つてゐる。が一刻も早くエチオピアへ帰らうではないか』バルタザアルはかう云つた。
 王は愛するすべての物を失つたので、一身を智慧に捧げて魔法師の一人にならうと決心した。此決心は格別王に快楽を与へなかつたにしても、少くとも平静な心だけは回復してくれたのである。王は毎夜、魔法師のセムボビチスと宦官のメンケラと共に王宮の露台に坐して、地平線を遮つてそよりともせずに立つてゐる椰子の木を見つめたり、材木のやうにナイル河を下つて来る
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