ナ、測深錘《おもり》のやうな透視をわしの霊魂の中に投入れるのである。それから彼は、わしがどう云ふ方針で此教会区を管轄するか、こゝへ来てから幸福かどうか、教務の余暇をどうして暮すか、此処に住んでゐる人々と大勢近附きになつたか、何を読むのが一番好きかと云ふやうな事を、数知れず尋ねた。わしは是等の問ひを出来る丈、短く答へたが、彼は何時でもわしの答を待たずに、急いで一つの問題から一つの問題へ移つて行つたのである。此会話は、彼が実際云はうとしてゐる事とは何の関係もないのに違ひない。遂に彼は何の予告もなく、丁度其時思ひ出した知らせを、忘れずに繰り返しておくやうに、明晰な声で急にかう云つた。其声はわしの耳に最後の審判の喇叭《らつぱ》のやうに響いたのである。
「あの名高い娼婦のクラリモンドが、五六日前の事、八日八夜続いた饗宴の終にとう/\死んでしまつたわ、大した非道な事であつたさうな。ベルサガアルとクレオパトラの饗宴に行はれた罪悪が又犯されたと云ふものぢや。神よ、わし達は何と云ふ末世《まつせ》に生きてゐるのでござらう。客人たちは皆黒人の奴隷に給仕もして貰つたさうな。其奴隷共は又何やらわからぬ語《ことば》を饒舌《しやべ》る、わしの眼には此世ながらの悪魔ぢや。其中の一番卑しい者の服でさへ、皇帝が祭礼に着る袍の役に立つさうな。此クラリモンドには、始終妙な噂があつたつて。何でも女性の夜叉だと云ふ噂ぢや。が、わしは確かにビイルゼバッブだと信じてゐるて。」
 彼は話すのを止めて、恰《あたか》も其話の効果を観察するやうに、前よりも一層、注意深くわしを見始めた。わしは彼がクラリモンドの名を口にした時に思はず躍り立たずには居られなかつた。そして彼女の死の知らせは、わしの見た其夜の景色と符合する為に、わしの胸を畏怖と懊悩とに満たしたのである。其畏怖と懊悩とはわしが出来る限り力を尽したにも拘らず、わしの顔に現はれずにはゐなかつた。セラピオンは心配さうな、厳格な眸《め》でぢつとわしを見たが、やがて云ふには「わしはお前に忠告せねばならぬて。お前は足をつまだてゝ奈落の辺《ふち》に立つてゐるのぢや。落ちぬやうに注意をしたがよい。悪魔の爪は長いわ、墓もあてにはならぬ物ぢや。クラリモンドの墓は、三重の封印でもせねばなるまい。人の云ふのが誠なら、あの女の死ぬのは始めてゞは無いさうな。神がお前を御守り下さればよいがの、ロミュアル。」
 かう云つて僧院長《アベ》セラピオンは静かに戸口へ歩んで行つた。わしは其時二度と彼に会はなかつた。それは彼が殆んど直にS――へ帰つたからである。
 わしは全く健康も恢復すれば、又日頃の職務に服する事も出来る様になつた。がクラリモンドの記憶と老年の僧院長《アベ》の語とは一刻もわしを離れない。けれども格別、彼の気味の悪い予言を実現するやうな大事件も起らなかつたので、わしは彼の掛念もわしの恐怖も、誇張されたのに過ぎないと信じるやうになつた。すると、ある夜、不思議な夢を見た。それはわしが眠るか眠らないのに、寝床の帳《とばり》の輪が、鋭い音を立てゝ、其輪のかゝつてゐる棒の上をすべつたので、わしは帳が開いたなとかう思つた。そこで素早《すばや》く肘をついて起き上ると、わしの前に真直に立つてゐる女の影がある。わしは直にそのクラリモンドなのを知つた。彼女は手に、墓の中に置くやうな形をした小さなランプを持つてゐる。その光に霑された彼女の指は、薔薇色にすきとほつて、それが亦次第に不透明な、牛乳のやうに白い、裸身《はだかみ》の腕に溶けこんでゐる。彼女の着てゐるのは、末期《まつご》の床の上に横はつてゐた時に彼女を包んでゐた、リンネルの経帷子である。彼女はこの様にみすぼらしい衣服を纏ふのを恥ぢるやうに、其リンネルの褶に胸をかくさうとしたものの、彼女の小さな手は其役に立たなかつた。彼女は其経帷子の色がランプの青ざめた光の中で彼女の肉の色と一つになる程白いのである。彼女の肉体のあらゆる輪廓を現すやうな、しなやかな、織物に包まれた彼女の姿は、生きた女と云ふよりも寧ろ美しい古の浴みする女の大理石像のやうに眺められる。が、死んでゐるにせよ、生きてゐるにせよ、石像にせよ女にせよ、影にせよ肉体にせよ、彼女の美しさは依然として美しい。唯違ふのは彼女の眼の緑色の光が、前よりも輝かないのと嘗ては燃えたつやうな真紅《しんく》の唇が、今は其頬の色のやうな、微かなやさしい薔薇色に染んでゐるとの二つである。わしが前に気の附いた、髪にさしてある小さな青い花も今は見る影もなく枯れ凋んで、殆どのこらず葉を振ひつくしてゐるが、之とても彼女の愛らしさを妨げる事はない――彼女は、此事の性質が不思議なのにも拘らず、又わしの室へはひつて来た様子が奇怪なのにも関らず、暫くはわしが何等の恐怖をも感じなかつた程、愛らしく見えたのである。
 彼女はランプを卓の上へのせて、わしの寝床の後に坐つた。それからわしの上に身をかゞめて、銀のやうに冴えてゐる、しかも天鵞絨のやうにやさしく柔かい声で、かう云つた。其声は彼女を除いては誰の唇からも聞く事の出来ぬやうな声である。
「貴方を随分長い間待たせて置いてね。ロミュアル、私が貴方の事を忘れてしまつたのだと思つたでせう。でも私は遠い処から来たのよ、それはずうつと遠い処なの。其処へ行つた者は誰でも帰つて来た事の無い国なの。さうかと云つてお日様でもお月様でもないのよ。唯、空間と影ばかりある処なの、大きな路も小さな路もない処でね。踏むにも地面のない、飛ぶにも空気のない処なの。それでよく此処へ帰つて来られたでせう。何故と云へば恋が『死』より強いからだわ。恋がしまひには『死』を負かさなければならないからだわ。まあ、此処へ来る途中で、何と云ふ悲しい顔や、恐しい物を見たのでせう。唯意志の力だけで又此大地の上へ帰つて来て、体を見附けて其中へはひる迄に、私の霊魂は何と云ふ苦しい目に遭つたでせう。私を掩つて置いた重い石の板を擡げる迄に、何と云ふ苦労をしなければならなかつたでせう。ごらんなさい、私の手の掌《ひら》は傷だらけぢやありませんか。手を接吻して頂戴。さうすれば屹度|癒《なほ》るわ。」彼女は冷い手の掌《ひら》を代り/″\わしの口に当てた。わしは何度となくそれを接吻した。其間も彼女は、溢るゝ許りの愛情の微笑《ほゝゑみ》をもらして、わしをぢつと見戍《みまも》つてゐるのである。
 わしは恥しながら白状する。此時わしは僧院長《アベ》セラピオンの忠告もわしの服してゐる神聖な職務も悉く忘れてしまつた。わしは何の抵抗もせずに、一撃されて堕落に陥つてしまつたのである。クラリモンドの皮膚の新たな冷さはわしの皮膚に滲み入つて、わしが淫慾のをのゝきが、全身を通ふのを感ぜずにはゐられなかつた。わしが後《あと》に見た凡ての事があるのにも拘らず、わしは今も猶彼女が悪魔だとは殆ど信じる事が出来ない。少くも彼女は何等さうした姿を示さなかつた。悪女がこの様に巧に其爪と角とを隠した事は、嘗て無かつた事に相違ない。彼女は床をあげて寝台の縁《ふち》に坐りながら、しどけない媚に満ちた姿をして、時々小さな手をわしの髪の中に入れては、どうしたらわしの顔に似合ふかを見るやうに、わしの髪を撚《よ》つたり捲《ま》いたりしてゐるのである。わしが、罪障の深い悦楽に酔つて、彼女の手にわしの体を任せると、彼女は又、其やさしい戯れと共に、楽しげに種々な物語をしてくれる。しかも最も驚くべき事は、わしが此様な不思議な出来事に際会しながら何等の驚異をも感じなかつたと云ふ事である。丁度夢の中では人がどの様な空想的な事件でも、単なる事実として受入れるやうに、わしにも、是等の事情は全く自然であるが如くに思はれたのである。
「貴方に会はないずつと前から私は貴方を愛してゐてよ。可愛いゝロミュアル、さうして方々探してあるいてゐたのだわ。貴方は私の愛だつたのよ。あの時あの教会で始めてお目にかゝつたでせう。私、直に『之があの人だ』つて云つたわ、それから、私の持つてゐた愛、私の今持つてゐる、私の是から先に持つと思ふ、すべての愛を籠めた眸《め》で見て上げたの――其|眼《め》で見ればどんな大僧正でも王様でも家来たちが皆見てゐる前で、私の足下に跪いてしまふのよ。けれど貴方は平気でいらしつたわね、私より神様の方がいゝつて。
「私、ほんたうに神様が憎くらしいわ、貴方はあの時も神様が好きだつたし、今でも私より好きなのね。
「あゝ、あゝ、私は不仕合せね、私は貴方の心をすつかり私の有《もの》にする事が出来ないのね。貴方が接吻で生かして下すつた私――貴方の為に利の門を崩して、貴方を仕合せにしてあげたいばつかりに、命を貴方に捧げてゐる私。」
 彼女の話は、悉く最も熱情に満ちた撫愛に伴はれた。其撫愛はわしの感覚と理性とを悩ませて、わしは遂に彼女を慰める為に、恐しい涜神の言を放つて、神を愛する如く彼女を愛すると叫ぶのさへ憚らないやうになつた。
 すると、彼女の眼は、再び緑玉髄《エメラルド》の如く輝いた。「ほんたう?――ほんたうに?――神様と同じ位。」彼女は其美しい胸にわしを抱きながら叫んだ。「それなら、貴方、私と一しよにいらつしやるわね、どこへでも私の好きな処へついていらつしやるわね、貴方はもう、あの醜い黒法衣を投げすてゝおしまひなさるのよ。貴方は騎士の中で、一番偉い、一番羨まれる騎士におなりになるのよ、貴方は私の恋人だわ。法王の云ふ事さへ聞かなかつたクラリモンドの晴れの恋人になるのだわ。少しは得意に思ふやうな事ぢやあなくつて。あゝ、美しい、何とも云へぬ程仕合せな生涯を、うるはしい、黄金色《こがねいろ》の生活を、二人で楽むのね。さうして、何時立つの。」
「明日《あした》、明日。」とわしは夢中になつて叫んだ。
「ぢや明日にするわ。其間に御化粧をかへる事が出来てね。これでは少し薄着だし、旅をするにはをかしいわ。それから、私を死んだと思つて此上もなく悲しがつてゐるお友達に知らせを出さなければならないわ。お金に着物に馬車に――皆支度が出来てゐてよ。私、今夜と同じ時刻にお尋ねするわ。さやうなら。」彼女は軽く唇を、わしの額にふれた。ランプは消えて、帳が元のやうに閉されると、凡てが又暗くなつた。と、鉛のやうな、夢も見ない眠りがわしの上に落ちて、次の朝迄、わしを前後を忘れさせてしまつたのである。
 わしは何時ものやうに朝遅く眼をさました。そして其不思議な出来事の回想が終日、わしを煩した。わしは遂にそれを、わしの熱した空想が造つた靄のやうなものだと思ひ直した。が、其感覚が余りに溌剌としてゐるので、其事実でない事を信ずるのは、甚しく困難であつた。そしてわしは来るべき事実に対する多少の予感を抱きながら、凡ての妄想を払つて、清浄な眠を守り給はむ事を神に祈つた後に、遂に床に就いたのであつた。わしは直に深い眠りに落ちた。そしてわしの夢も続けられた。帳《とばり》が再び開いて、わしはクラリモンドの姿を見た。青ざめた経帷子《きやうかたびら》を青ざめた身に纏つて、頬に「死」の紫を印した前夜とは変つて、喜ばしげに活々して、緑がかつた董色の派出な旅行服の、金のレースで縁をとつたのを着て、両脇を綻ばせた所からは、繻子の袴《ジュボン》がのぞいてゐる。金髪の房々した捲毛を、いろいろな形に面白く撚《よ》つてある白い鳥の羽毛をつけた、黒い大きな羅紗の帽子の下から、こぼしてゐる彼女は、手に金色の呼笛のついた小さな鞭を持つて、軽くわしを叩きながら、かう叫んだ。「さあ、よく寝てゐる方や、これが貴方の御支度なの。私、貴方がもう起きて着物を着ていらつしやるかと思つたわ。早くお起きなさいよ。愚図々々しちやゐられないわ。」
 わしは直に寝床からとび出した。
「さあ、着物をきて頂戴。それから出かけませう。」彼女は一しよに持つて来た小さな荷包を指さしながら、「馬が待遠しがつて、戸口で轡《くつわ》を噛んでゐるわ。今時分はもう此処から三十哩も先きへ行つてゐる筈だつたのよ。」
 わしは急いで着物を着た。彼女はわしに着物を一つ/\渡してくれた。そしてわしがどうかして間違へる
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