クラリモンド
LA MORTE AMOUREUSE
テオフィル・ゴーチエ Theophile Gautier
芥川龍之介訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)分隔《わけへだ》て

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)其|黄鼬《てん》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)一つ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔The'ophile Gautier〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 兄弟、君はわしが恋をした事があるかと云ふのだね、それはある。が、わしの話は、妙な怖しい話で、わしもとつて六十六になるが、今でさへ成る可く、其記憶の灰を掻き廻さないやうにしてゐるのだ。君には、わしは何一つ分隔《わけへだ》てをしないが、話が話だけに、わしより経験の浅い人に話しをするのは、実はどうかとも思つてゐる。何しろわしの話の顛末《いきさつ》は、余り不思議なので、わしが其事件に現在関係してゐたとは自分ながらわしにも殆ど信じる事が出来ぬ。わしは三年以上、最も不可思議な、そして、最も奇怪な幻惑の犠牲になつてゐたのである。
 わしはみじめな田舎の僧侶をしてゐたが、毎夜、夢には――わしはそれが悉く夢ならむ事を祈つてゐるが――最も五慾に染んだ、呪ふ可き生活を、云はゞサルダナパルスの生活を送つてゐた。そして或女をうつかり一目見たばかりに、危《あぶな》くわしの霊魂を地獄に堕す所だつたが、幸にも神の恵と、わしを加護してくれた聖徒の扶けとによつて、遂にわしは、わしに附いてゐた悪魔の手から免れる事が出来た。思へばわしの昼の生活は、長い間、全く性質の異つた夜の生活と、織り交ぜられてゐたのである。昼間は、わしは祈祷と神聖な事物とに忙しい神の僧侶であるが、夜、眼をつぶる刹那からは、忽《たちま》ち若い貴族になつてしまふ。女と犬と馬とにかけては、眼のない人間になつてしまふ。博奕も打つ、酒も飲む、罵詈をして神を馬鹿にもする。そして、暁方に眼を醒ますと、却つてわしがまだ眠つてゐて、唯、僧侶になつた夢をみてゐるやうな心持がする。此夢遊病者のやうな生活の或場面とか或語とかの回想は、未だにわしの心に残つてゐて、わしはどうしてもそれを、わしの記憶から拭ひ去る事が出来ない。わしは、実際、わしの住居《すまひ》を離れた事のない人間なのだが、人はわしの話すのを聞くと、わしは浮世の歓楽に倦みはてゝ、信心深い、波瀾に富んだ生涯の結末を神に仕へて暮さうと云ふ沙門だと思ふかもしれない。此世紀の生活からさへ絶縁された、森の奥の、陰鬱な僧房に住みふるした学僧だとは思はぬかもしれない。
 わしは恋をした。わしの様に烈しく恋をした者は此世に一人もゐない程、恋をした――愚《おろか》な、凄《すさま》じい熱情を以て――わしは寧ろその熱情がわしの心臓をずたずたに裂かなかつたのを怪しむ位である。あゝ如何なる夜――如何なる夜であつたらう。
 わしは幼い時から、わしの天職の僧侶にあるのを感じてゐた。そこでわしの凡ての研究は、其理想を目標として積まれたのである。二十四歳までのわしの生活は云はゞ唯、長い今道心の生活であつた。神学を修めると共に、わしは引続いて凡ての下級の僧位を得た為めに、先達たちは、若いながらわしが、最後の、恐しい位階を得る資格がある事を認めてくれた。そしてわしの授位式は、復活祭の一週中に定められたのである。
 わしはそれ迄に世間を見た事がなかつた。わしの世界は大学と研究室との壁に限られてゐたのである。尤も「女」と云ふ者があると云ふ事は、漠然と知つてゐたが、わしはわしの思想が此様な題目の上に止る事を許さなかつたので、わしは全く純真無垢な生活をつゞけて来た。一年に二度、わしは、年をとつた体《からだ》の弱い母親に逢ふが、此二回の訪問の中に、わしの外界に対する、凡ての関係が含まれてゐたのである。
 わしは何も悔いる所はなかつた。わしは此最後の、避く可からざる一歩を投ずるのに、何等の躊躇もしなかつた。わしは唯、喜悦と短気とに満たされてゐたのである。婚礼をする恋人でも、わし以上の熱に浮かされた感激を以て、遅い時の歩みを数へはしなかつたであらう。わしは眠りさへすれば、必ず祈祷を唱へてゐる夢を見た。僧侶になるより愉快な事はない。かうわしは信じてゐた。元より国王になる気も、詩人になる気も無い。わしの野心は、之以上に高い目標を認める事が出来なかつたのである。
 わしが君に此様な事を云ふのは、わしの身の上に起つた事が、順当に行けば決して起らなかつたと云ふ事を知らせる為めに云ふのである。そしてわしが、不可解な蠱惑《こわく》の犠牲であつたと云ふ事を理解して貰ふ為めに云ふのである。
 終に当日が来た。わしは、自分が空に浮んでゐるか、肩に翼が生えたかと疑はれる程、軽快な足取りで、教会へ歩いて行つた。わしには、自分が天使であるかの如く思はれた。そして、わしの同輩の、真面目な考深い顔をしてゐるのが、如何にも不思議に思はれた。それは教会にも、わしの同輩が五六人ゐたからである。わしは一夜を祈祷に明した後なので、殆ど恍惚として一切を忘れようとしてゐた。年をとつた僧正も、わしには「永遠」に倚《よ》つてゐる神の如くに見えた。わしは実に、殿堂の穹窿《きゆうりゆう》を透《すか》して、天国を望む事が出来たのである。
 あの式の個条は君もよく知つてゐる――祓浄式、二つの形式の下に行はれる聖餐式、「改宗者の膏《あぶら》」を手の掌《ひら》に塗る式、それから、僧正と一しよに恭しく、神の前へ犠牲を捧げる式……
 あゝ、ヨブが「軽忽《きやうこつ》なる者は、眼を以て聖約を為さざる者なり」と云つたのは、真理である。わしは不図、其時迄下を向いてゐた頭を挙げて、わしの前にゐる女を見た。女はわしが触れる事が出来るかと思はれる程、近くにゐる――が実際は、わしから可成離れて、内陣のずつと向うの欄干の辺《あたり》にゐたのである――年も若く、容貌《きりやう》も驚くばかり美しい。そして立派な着物迄着てゐる。丁度、其時わしはわしの眼から、急に鱗が落ちたやうな気がした。わしは、思ひがけなく明を得た盲人のやうな心持になつたのである。一瞬間以前には、光彩に溢れてゐた僧正も、急に何処かへ行つてしまへば、金色の燭架の上の蝋燭も、暁の星のやうに青ざめて、わしには無限の闇黒が、全寺院を領したやうに思はれた。そして其美しい女は、其闇黒を背景に燦爛とした浮彫になつて、丁度天使の来迎を仰ぐやうに、わしの眼の前に現れて来た。彼女は、自ら輝いてゐるやうに、しかも光を受けてゐると云ふよりは、自ら光を放つてゐるやうに見えたのである。
 わしは眼を閉ぢた。そして二度と再び眼をあけまいと決心した。わしは外界の事物の影響を蒙るのを恐れてゐた。それは、殆どわしが何をしてゐるか知らぬ内に、次第に蠱惑がわしの心を捕へてしまつたからである。
 それにも関らず、忽ち又、わしは眼を開いた。何故と云へば、わしは睫毛の間からも、彼女が虹色にきらめきながら、太陽を凝視《みつめ》てゐる時に見えるやうな、紫の半陰影に囲まれてゐるのを見たからであつた。
 おゝ如何に彼女は美しかつたであらう。理想の美を天上に求めて、其処から聖母の真像を地上に齎し帰つた大画家でも、其輪廓に於ては到底、わしが今見てゐる、自然の美しい実在に及ぶ事は出来ない。詩人の詩、画家の画板も、彼女の概念を与へる事は、全く不可能である。彼女はどちらかと云へば、背の高い方で、女神のやうな姿と態度とを備へてゐる。柔かな金髪は、真中から分れて、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の上へ二つの漣立《さゞなみた》つた黄金の河を流してゐた。丁度、王冠を頂いた女王のやうにも思はれる。すき透るばかりに青白い額は又静に眉毛の上に拡がつてゐる。其眉毛は不思議にも殆ど黒く、抑へ難い快活と光明とに溢れた海の如く青い眼の感じを飽く迄もうつくしく強めてゐる。あゝ、何と云ふ眼であらう。唯一度瞬けば一人の男の運命を定めるのも容易なのに相違ない。其眼はわしが是迄人間の眼に見る事の出来なかつた生命と光明と情熱と潤ひのある光とを持つてゐる。其眼は又絶えず矢のやうに光を射てゐる。そしてわしは確に、その光がわしの心の臓に這入つたのを見た[#「見た」に傍点]。わしは其眼に輝いてゐる火が、天上から来たのか、地獄から来たのかを知らない。けれども、それは確に其二つの中のどちらからか来たのである。彼女は天使か、さもなくば悪魔である。そして恐らくは又両方であつたらしい。兎に角、彼女が我等の同じき母なるエヴの胎から生れた者で無い事は確である。それから此上もなく光沢《つや》のある真珠の歯が、紅い微笑《ほゝゑみ》の中にきらめいて、唇の彎《ゆが》む毎に、小さな靨《ゑくぼ》が、繻子のやうな薔薇色のうつくしい頬に現れる。そして鼻の孔《あな》の正しい輪廓にも、高貴な生れを示す嫋《なよ》やかさと誇らしさとが見えてゐる。半ば露《あらは》した肩の滑な光沢《つや》のある皮膚の上には、瑪瑙《めのう》の光がゆらめき、大きな黄味のある真珠を綴つた紐は――其色の美しさは殆ど彼女の頸に匹敵する――彼女の胸の上にたれてゐる。時々、彼女は物に驚いた蛇か孔雀のやうな、をのゝくやうな嬌態《しな》を作つて、首をもたげる。すると銀の格子細工のやうに頸を捲いてゐる高いレースの襞襟《ひだえり》がをのゝくやうに動くのである。
 彼女は橙色がかつた真紅の天鵞絨《ビロード》の袍を着てゐた。其|黄鼬《てん》の毛皮のついた、広い袖口からは、限りなく優しい、上品な手が、覗いてゐる。手は|曙の女神《オーロラ》の指のやうに、光を透すかと思はれる程、清らかなのである。
 凡て是等の事柄を一つ/\わしは昨日の如く思ひ返す事が出来る。何故と云へば其時、わしはどぎまぎしながらも、何一つ見落すやうな事をしなかつたからである。ほんの微かな陰影でも、顋の先の一寸した黒い点でも、唇の隅の有るか無いかわからない程の生毛《うぶげ》でも、額の上にある天鵞絨のやうな毛でも、頬の上に落ちる睫毛《まつげ》のゆらめく影でも、何でもわしは驚く程明瞭な知覚を以て、注意する事が出来た。
 そしてわしは凝視を続けながら、わしの心の中に、今迄鎖されてゐた門をわしが開いてゐるのを感じた。長い間塞がれてゐた孔が開けて、内部の見知らない景色を垣間見《かいまみ》る事が出来たのである。人生は忽ち全く新奇な光景を、わしの前に示してくれた。わしは、今新しい世界と新しい事物の秩序との中に生れて来るのであつた。
 すると恐しい苦痛がわしの心を、赤熱した釘抜のやうに苛《さいな》みはじめた。一|分《ぷん》一分が、わしには一秒であると共に又一世紀であるやうに思はれた。此間に式が進んで、わしは間も無く、わしの新たに生れた欲望が烈しく、闖入しようとしてゐた世界から、遠くへ引離されてしまつたのである。わしは「否」と云ひたい所を「然り」と答へた。これはわしの心の中にある凡ての物がわしの霊魂に加へた舌の暴行に対して極力反抗したが其甲斐がなかつたのである。恐らく、多くの少女が断然父母の定めた夫を拒絶する心算《つもり》で、祭壇へ歩んで行くのにも関らず、一人として其目的を果す者の無いのも、かうした訳からに相違ない。そして多くの燐れな新参の僧侶が誓言を述べに呼ばれる時には、面※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ヴェール》をずた/\に裂く決心をしてゐながら、阿容々々とそれを取つてしまふのも亦確にかうした訳からである。かくして人は、其処にゐる凡ての人々に対して大なる誹謗《ひばう》の声を挙げる事を敢てしないと
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