、に、又多くの人々の期待を欺く事も敢てしない。凡ての夫等の人々の眼、凡ての夫等の人々の意志は、恰も鉛の如く君の上に蔽ひかゝるやうに思はれるのである。それのみならず、規則も正しく定まつてゐれば、万事が予め、完全に整つて、しかも多少必然的に避ける事の出来ないやうに出来上つてゐるので、個人の意志は事情の重みに屈従して遂には全く破壊されてしまふのである。
式の進むのにつれて、其知らぬ美人の顔も表情が違つて来た。彼女の顔色は、最初は撫愛するやうな優しさを示してゐたが、今は恰もそれを理解させる事が出来ないのを、憎み且つ恥づるやうな容子に変つたのである。
山をも抜くに足りる意志の力を奮つて、わしは、僧侶などになり度く無いと叫ばうとした。が、どうしてもそれが出来なかつた。わしには舌が上顎に附着してしまつたやうな気がしたのである。わしは否定の綴音を一つでも洩して、わしの意志を表白する事すら出来なかつた、わしは眼が醒めてゐながら、生命《いのち》にも関はる一語を叫ばうとして、魘《うな》されてゐる人間のやうな心持がした。
彼女もわしの殉教の苦しみを知つてゐるかの如くに見えた。そして恰も、わしを励ますやうに、最も神聖な約束に満ちた眼色《めつき》をして見せるのである。彼女の眼が詩なら彼女の一瞥は正に唄であつた。
彼女はわしにかう云つてくれる。「貴方《あなた》が私のものになる思召しなら、私は貴方を天国にゐる神様より仕合せにしてあげます。天使たちでさへ貴方を嫉むでせう。貴方は貴方を包まうとする経帷子《きやうかたびら》を裂いておしまひなさい。私は『美』です、『若さ』です、『生命』です。私の所へいらつしやい。エホバはその代りに何を貴方に呉れるのでせう? 私たちの命は夢のやうに、永久の接吻の中に流れて行きます。其聖杯の葡萄酒を投げすてゝおしまひなさい。さうすれば貴方は自由です。私は貴方を『知られざる島』へつれて行つてあげます。貴方は、銀の天幕の下で厚い金の床の上で、私の胸にお眠りなさい。私は貴方を愛してゐるのですから。私は貴方の神の手から貴方を離してしまひたいのですから。貴方の神の前では、大ぜいの尊い心性《こゝろばへ》の人たちが、愛の血を流します。けれども其血は神のゐる玉座の階《きざはし》にさへとゞきません。」
是等の語は、わしの耳に無限の情味にあふれた諧律を作つて漂つて来るやうに思はれた。そして彼女の眼の声は、恰も生きた唇がわしの生命の中に声を吹き込んだやうに、わしの心臓の奥迄も反響した。わしはわし自らが神を捨てようとしてゐるのを感じた。が、わしの舌は猶機械的に式の凡ての形式を満したので、わしはわしの胸が聖母の剣よりも鋭い刃に貫かれるやうな気がせずにはゐられなかつた。
凡ての事が円満に終を告げた。わしは遂に憎侶となつた。
此時、彼女の顔に現れた程、人間の顔に深く苦痛が描かれた事はない。婚約をした恋人が突然、己の傍に仆れて死んだのを見た少女、歿《なく》なつた子供の揺籃に倚懸つてゐる母親、楽園の門の閾《しきゐ》に立てゐるエヴ、宝は盗まれて其跡に石の置いてあるのを見た吝嗇な男、偶然其最も傑れた作の原稿を火の中に取落した詩人――是等の人々もかう迄絶望した、かう迄慰め難い顔附《かほつ》きをする事はないであらう。血と云ふ血は彼女の愛らしい顔を去つて、それが今は大理石よりも白くなつてゐる。彼女の美しい両腕は、恰も其筋肉が急に弛緩したかのやうに、力なく両脇に垂れてゐた。彼女は身を支へる柱を求めた。それは殆ど手足が彼女の自由にならなくなつてゐたからである。そしてわしも亦、教会の戸口の方に蹌踉《よろめ》いて行つた、死のやうに青ざめて、額にはカルヴァリイ(註。耶蘇の磔殺された地名)の汗よりも血のやうな汗を流しながら。わしはまるで縊り殺されてゐるやうな気がした。さうかと思ふと又円天井がわしの肩の上へ平になつて落ちて来るやうな気もした。そして其円天井の重量をわしの頭だけで支へてゐるやうな心持になつたのである。
わしが戸口を出ようとすると、急に一つの手がわしの手を捕へた――女の手だ! 其時迄わしは一度も女の手に触れた事は無かつた。其手はさながら蛇の皮膚のやうに冷い。しかも其感触は、恰も熱鉄に烙《やか》れたやうに、わしの手首を燃やすのである。彼女だ。「不仕合せな方ね。不仕合せな方ね。何と云ふ事をなすつたの。」彼女は低い声でかう叫ぶと、忽ち群集の中に隠れて見えなくなつてしまつた。
すると、老年の僧正がわしの傍を通り過ぎた。そして厳格な、不審さうな一瞥をわしの上に投げた。わしは顔を赤くしたり、青くしたりした。と、同輩の一人がわしを憐れんで、手を執つてわしを外へ連れ出してくれた。恐らくわしが、人の扶けを借りずに、研究室へ帰るのは、到底出来なかつた事であらう。所が往来の角で、同輩の若い僧侶の注意が一寸他に向いてゐる隙を見て、空想的な衣裳を着た、黒人の扈従《こしやう》がわしの側《そば》へやつて来た。そして歩きながら、わしの手に小さな金縁の手帳を忍ばせると同時に、それを隠せと云ふ相図をした。わしはそれを袖の中に隠した。そしてわしの部屋へ帰つて独りになるまで、そこにしまつて置いた。それからわしは其|控金《とめがね》を開いた。中には紙が二枚はひつてゐる。其紙にはかう書いてあつた。「クラリモンド・コンチニの宮にて」当時わしは、世間の事に疎かつたので、クラリモンドの名さへ、有名だつたのにも関らず、耳にした事は一度も無かつた。そして又コンチニの宮が何処にあるかと云ふ事も、一向に分らなかつた。そこでわしは何度となく推量を逞くして見た。そして推量を重ねる度に想像は益々方外になつたが、実際、わしは唯もう一度、彼女に逢へさへするならば、彼女が貴夫人であらうと、娼婦であらうと、それは大して構ひもしなかつたのである。
わしの恋は、僅一時間程経つ内に、抜き難い根を下ろして了つた。わしは其恋を思切らうなどとは夢にも思はなかつた。わしには其様な事は、全然不可能だとしか信じられなかつた。彼女が一目見たばかりにわしの性質は一変してしまつたのである。彼女は己の意志をわしの生命の中に吹き込んだ。そしてわしはもうわし自身の肉体の中に生活しないで、彼女の肉体の中に、しかも彼女の為に生活するやうになつた。わしはわしの手の、彼女の触れた所を接吻した。わしは何時間も続けさまに、彼女の名を繰返して呼んで見た。何時でも眼さへ閉ぢればわしには彼女の姿が其処にゐるやうにはつきりと見えるのである。わしは彼女が教会の玄関で、わしの耳に囁いた語を反覆した。「不仕合せな方ね、不仕合せな方ね。何と云ふ事をなすつたの。」わしは遂に、わしの現状の恐しさを、判然と理解する事が出来た。わしの今、就いた職務の恐る可き厳粛な制限が、明かにわしの前に暴露された。僧侶になる!――それは独身でゐると云ふ事だ。決して恋をしないと云ふ事だ。性《セックス》とか年齢とかの区別を構はなくなる事だ。凡ての美から背き去る事だ。眼を抉りぬいてしまふ事だ。永久に寺院とか僧院とかの冷い影の中に蹲つて隠れてゐる事だ。見知らない屍体に番をされてゐる事だ。死にかゝつてゐる人間ばかり訪ねて行く事だ。そして己自身の死を悼む喪服として、何時でも黒い法衣を着てゐる事だ。云はゞ君の着物が、君の亡骸《なきがら》を納めた柩の棺布《かけぎぬ》の役に立つのである。
わしは今更のやうにわしの生命が、丁度地下の湖のやうに、拡がりつゝ溢れつゝ水嵩を増して来るのを感ずる。わしの血は烈しくわしの動脈をめぐつて躍り上る。わしの久しく抑圧してゐた青春は、千年に一度花の咲く蘆薈のやうに、生々と萌え出でて迅雷の響と共に花を開くのだ。
クラリモンドに、再び逢ふ為にわしは何をする事が出来るのだらう。わしは市にゐる人を一人も知らない。それでどうして研究室を去る口実が得られよう。わしは暫くでも此処に止つてゐられさうもない。唯、待ち遠いのは、わしが今後就任すべき牧師補の辞令ばかりである。わしは窓《まど》の鉄格子を取去らうと試みた。けれども窓は地を離れる事が遠いので、梯子が無ければ、かうして逃げるなどと云ふ事を考へるだけ愚だと気がついた、其上、わしが夜に乗じて其処から逃げる事が出来たとしても、其後どうして錯雑した街路の迷宮を、わしの思ふ所へ辿り着く事が出来るだらう。多くの人々には全く無意味に思はれる是等の凡ての事が、昨日始めて恋に落ちた、経験も無く、金も無く、美しい着物も無い燐れな学僧のわしには、偉大な事のやうに思はれたのである。わしは恋の闇に迷ひながら、かう自ら叫んだ。「あゝ、わしが僧侶で無かつたなら、わしは彼女を毎日見る事が出来るのだ、彼女の恋人にも彼女の夫にもなれるのだ。さうしたら此陰気な法衣に包まれてゐる代りに、外の美しい騎士のやうに絹と天鵞絨の袍を着て、金の鎖を下げて、剣を佩いて、美しい鳥の羽毛を着《つ》けるやうになるだらう。わしの髪も、短く刈られてしまふ代りに、波立ちながら渦を巻いて、わしの頸の上に垂れるだらう。わしの髭にも美しく蝋を引くだらう。そしてわしは一廉《ひとかど》の貴公子になれるのだ。」それを唯、祭壇の前で一時間を過した為に、忙しく口にした五六の語の為に、わしは永久に生きてゐる人間の仲間から追払はれて、わし自身の墓石に封をするやうな事になつたのだ。
わしは窓の所へ行つた。空は青く美しい、木は春の着物を着てゐる。わしには自然が皮肉な歓喜を飾り立てゝゐるやうに見えた。広場には人が一杯ゐる。行く者もある、来る者もある、若い遊冶郎と若い美人とが二人づつ、茂みや花園の方へぶら/\歩いて行くのも見える。愉快らしい青年が、楽しさうに「将進酒《しやうしんしゆ》」の畳句《でふく》を唄ひ連《つ》れて歩むのも見える、――それは悉くわしの悲哀と寂寞とに辛《つら》い対照を造る愉悦、興奮、生活、活動の画図である。門の階段の上には若い母親が其子供と遊びながら坐つてゐる。母親は、未だ乳の滴が真珠のやうについてゐる子供の小さな薔薇色の唇に接吻をする。そして子供をあやす為に、唯女親のみが発明する事の出来る神聖な様々のとぼけた事をする。父親は少し離れて佇みながら此愛すべき二人を眺めて微笑を洩してゐる。それが両腕を組んだ中に其喜をぢつと胸に抱き締めてゐるやうに見える。わしは之を見てゐるのに忍びなかつた。そこで手荒く窓を鎖《とざ》して床の上に荒々しく身を横へた。わしの心は恐しい憎悪と嫉妬とに満ちてゐたのである。そして丁度十日も食を得なかつた虎のやうに、わしはわしの指を噛み、又わしの夜着を噛んだ。わしは、わしがどれ丈かうしてゐたか知らない。が、遂に痙攣的な怒りの発作に襲はれて、床の上で身を悶えてゐると急に僧院長《アベ》、セラピオンが室の中央に直立して、ぢつとわしを注視してゐるのを認めた。わしは、慚愧に堪へないで、頭を胸の上に垂れた。そして両手で顔を蔽つた。
「ロミュアルよ、わしの友達よ、何か恐しい事がお前の心の中に起つてゐるのではないか。」数分の沈黙の後にセラピオンが云つた。「お前のする事はわしには少しもわからない。お前は――何時もあのやうに静な、あのやうに清浄な、あの様に温和《おとな》しい――お前が野獣のやうに部屋の中で怒り狂つてゐるではないか。気をつけるがよい。兄弟よ――悪魔の暗示には耳を傾けぬがよい。悪魔は、お前が永久に身を主《しゆ》に捧げたのを憤つて、お前のまはりを餌食を探す狼のやうに這ひまはりながら、お前を捕へる最後の努力をしてゐるのぢや。征服されるよりは、祈祷を胸当てにして苦行を楯にして、勇士のやうに戦ふがよい。さうすれば必ずお前は悪魔に勝つ事が出来るだらう。徳行は、誘惑によつて試みられなければならない。黄金は試金者の手を経て一層純な物になる。恐れぬがよい、勇気を落さぬやうにするがよい。最も忠実な、最も篤信な人々は、屡々《しばしば》このやうな誘惑を受けるものぢや。祈祷をしろ、断食をしろ、黙想に耽れ、さうすれば悪魔は自《おのづか》ら離れるだらう。」
セラピオンの語は、わしを平常《ふだん》のわしに帰してくれた。そして少しはわ
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