zされてゐた。広庭には松明を持つた従者が縦横に駈け違ひ、頭の上には又|燈火《ともしび》の光が階段から階段へ上下してゐた。わしは此厖大な建築の形を、混雑の中に瞥見する事が出来たが――丸柱や迫持《せりもち》の廊下や階段や段梯《だんばしご》や――それは誠に魔法の国にもふさはしい、堂々とした豪奢の趣致と楚々とした優麗の風格とを併せ有してゐるものであつた。すると黒人の扈従が――以前にクラリモンドの手帳を持つて来た男である、わしはすぐにそれと気が附いた――わしの馬から下りるのを手伝ひに来た。それから、黒天鵞絨の着物を着て首に金鎖をかけた家令も、象牙の杖によりながらわしに会ひに出て来た。見ると大きな涙の滴が眼から落ちて、頬と白い髯の上に流れてゐる。
「間に合ひませんでした。」と彼は悲しさうに首を振りながら叫んだ。「間に合ひませんでした。霊魂を救ふ事はお出来になりません。でも、せめてどうかいらしつてお通夜をなすつて下さいまし。」
 彼はわしの手を執つて、死者の室へ案内した。わしの泣いたのも決して此老人に劣らなかつたであらう。それは死者が、クラリモンド其人、わしがあのやうに深くあのやうに烈しく恋してゐたクラリモンド其人だつた事を知つたからである。寝床の足の方には祈祷机が置いてある。
 青銅の酒盞《しゆさん》に明滅する青い光は、室内を朦朧とさした。深秘な光にみたして、唯暗い中に家具や軒蛇腹《のきぢやばら》の突出した部分を、其処此処に時々明く浮き出さしてゐる。卓子の上にある、彫刻を施した甕《かめ》の中には、一輪の素枯れた白薔薇が生けてある。其|葩《はなびら》は――一つだけ残つてゐたが――皆、香のいゝ涙のやうに落ち散つて、甕の下にこぼれてゐる。壊れた黒い面と扇と其外肘掛椅子の上に置いてある様々な扮装の道具を見ても、「死」が急に何の案内もなく此華麗を極めた城廓に闖入した事がわかるであらう。わしは寝床の上を見るのに忍びないので跪いたまゝ「死者の為の讃美歌」を誦し始めた。そして烈しい熱情を以て、神がわしと彼女の記憶との間に墳墓を造つて、今後わしが祈祷をする時にも彼女の名を永久に「死」によつて浄められた名として、口にし得るやうにして下すつた事を感謝した。けれ共、わしの熱情は次第に弱くなつて、わしは思はずある夢幻の中に陥つてしまつた。一体其室は、死人の室らしい所を少しも備へてゐない室であつた。わしが通夜の間に嗅ぎなれた不快な屍体の匂の代りに、ものうい東洋の香料の匂が――わしは艶《なまめ》いた女の匂がどんなものだか知らないのである――柔に生温い空気の中に漂つてゐる。青ざめた光は屍体の傍に黄色く瞬く通夜の蝋燭の代りと云ふよりは、寧ろ淫惑な歓楽の為にわざと作られた薄明りの如く思はれる。わしは、クラリモンドが永久にわしから失はれた瞬間に再び彼女を見る事が出来た、不思議な運命をつくづくと考へて見た。そして、残り惜しい懊悩の吐息がわしの胸を洩れて出た。其時、わしにはわしの後で誰かが亦吐息をしたやうに思はれた。で、振返つて見たがそれは、唯反響にすぎなかつた。けれ共、其刹那に、わしの眼は其時迄見るのを避けてゐた死者の寝床の上に落ちた。刺繍の大きな花で飾られた、赤いダマスコの帳《とばり》が、黄金の房にくゝられて、うつくしい屍骸を見せてくれるのである。屍体は長々と横になつて、手を胸の上に合せてゐる、眩ゆいやうな白いリンネルの褻衣《したぎ》に掩はれたのも、掛衣《かけぎぬ》の陰鬱な紫と、著しい対照を作つて、しかも地合《ぢあひ》のしなやかさが、彼女の肉体のやさしい形を何一つ隠す所もなく、見る人の眼を、美しい輪廓の曲線に従はしめる――白鳥の首の如くになよやかな――其輪廓の持つてゐる豊麗な、優しさは「死」すらも奪ふ事が出来なかつたのである。彼女はさながら或巧妙な彫刻家が女王の墳墓の上に据ゑる為に造り上げた雪花石膏の像か、或は又恐らくは、眠つてゐる少女の上に声もない雪が一点の汚れもない掛衣《かけぎぬ》を織りでもしたかの如く思はれた。
 わしはもう、力めて祈祷の態度を支へてゐる事が出来なくなつた。閨房の空気はわしを酔はせ、半ば凋んだ薔薇の花の熱を病んだやうな匂はわしの頭脳に滲み込んだ。わしは休みなく彼方此方と歩きながら、歩を転ずる毎に、屍体をのせた寝床の前に佇んで、其透いて見えさうな経帷子の下に、横はつてゐる優しい屍《しかばね》の事を、何と云ふ事もなく想ひはじめた、わしの頭脳には、熱した空想が徂徠して来たのである。わしは彼女が恐らく、本当に死んだのではあるまいと思つた。唯わしを此城へ呼び寄せて、其恋を打明ける為に、わざと死を装つてゐるのだと思つた。そしてわしは、同時に彼女の足が、白い掛衣《かけぎぬ》の下で動いて、少しく捲いてある経帷子の長い真直な線を乱したとさへ思つた。
 それからわしはかう自問した。「これが本当にクラリモンドであらうか、之が彼女だと云ふ何んな証拠があるだらうか。あの黒人の扈従は外の貴夫人に傭はれたのではないだらうか。この様に独りで苦しがつてゐては、屹度わしは気が狂ふのに相違ない。」けれども、わしの心臓ははげしく動悸を打ちながら、かう答へる。
「之が彼女だ。確に彼女だ。」わしは再び寝台に近づいた。そして再び注意して、疑はしい屍体を凝視した。あゝ、わしは之も白状しなければならないであらうか。其すぐれた肉体の形の完全さは、「死」の影で浄められてゐるとは云へ、常よりも更に淫惑な感じを起さしめた。そして又、其安息が何人も「死」とは思はぬほど、眠りによく似てゐるのである。わしは、此処へ葬儀を勤めに来たと云ふ事も忘れてしまつた。いや寧ろ花嫁の閨へはひつた花婿だと想像した。花嫁はしとやかに、美しい顔を隠して、羞しさに姿を残る隈なく掩はうとしてゐるのである。わしは胸も裂けむ許りの悲しみを抱きながら、しかも物狂はしい希望にそゝられて、恐怖と快楽とにをのゝきながら、彼女の上に身をかゞめて、経帷子の端に手をかけた。そして、彼女の眠を醒ますまいと息をひそめながら其経帷子を上げて見た。わしの動悸は狂ほしく鼓動して蟀谷《こめかみ》のあたりには蛇の声に似た音が聞えるかとさへ疑はれる。汗が額から滝の如く滴るのも、丁度わしが大きな大理石の板を擡げでもしたやうに思はれるのである。そして其処には実にクラリモンドが横はつてゐた。わしの得度《とくど》の日に見たのと寸分も違ひなく横はつてゐた。彼女の姿は其時と変りなく美しい。「死」も彼女にとつては、最後の嬌態に過ぎないのである。青ざめた頬、やゝ色の褪せた唇の肉色、其白い皮膚に黒い房をうき出させる長い睫毛、其等の物が皆彼女に悲しい貞淑と内心の苦痛との云ふ可らざる妖艶な容子を与へてゐる。未だ小さな青い花で編んである長い乱れ髪は、彼女の頭にまばゆい枕を造つて、其房々した巻き毛は、裸身《はだかみ》の肩を掩つてゐる。聖麺麭よりも清く、浄らかな美しい手は組合せたまゝ、清浄な安息と無言の祈祷とを捧げるやうに、胸の上にのつてゐる。未だ真珠の腕輪も外さない、裸身《はだかみ》の腕が象牙のやうにつや/\と、円《まど》かな肉附きを見せてゐる艶めかしさに――死後さへも猶――之のみが、反抗の意を示してゐるのである。わしは長い間、無言の黙想に沈んでゐた。すると、見てゐれば見てゐる程、わしには、「生」がこの美しい肉体を永久に去つたと云ふ事が信じられなくなつて来た。所が燈火《ともしび》の光の反射かそれはわしにも解らないが、(彼女はぢつと動かずにはゐるけれど)其命の無い青ざめた皮膚の下では、再び血液の循環が始つたやうに思はれた。わしは軽くわしの手を、彼女の腕の上に置いて見た。勿論それは冷かつた。が、あの寺院の玄関で、わしの手に触れた時よりも冷たくはないのである。わしは再び彼女の上にうつむいて、温かな涙の露に彼女の頬を沾した。あゝ、わしはぢつと彼女を見守りながら、如何なる絶望、自棄の苦悶に、如何なる不言の懊悩に堪へなければならなかつたであらう。わしは徒にわしの生命を一塊の物質に集めてそれを彼女に与へたいと思つた。そして彼女の冷かな肉体に、わしを苛《さいな》む情火を吹き入れたいと思つた。が夜は次第に更けて行つた。わしは永別の瞬間が近づくのを感じながらも、猶わが唯一の恋人なる彼女の唇に、接吻を印してゆく最後の悲しい快楽を、棄てる事が出来なかつた……と奇蹟なるかな、かすかな呼吸はわしの呼吸に交つて、クラリモンドの口は、わしの熱情に溢れた接吻に応じたのである。彼女の眼は開いて、先きの日の輝きを示してくれる。しかも長い吐息をついて、組んでゐた腕をほどくと、溢るゝばかりの悦びを顔に現して、わしの頸を抱きながら「あゝ貴方ね、ロミュアル。」と呟いてくれる。竪琴の最後の響のやうな、懶い美しい声である。「何が悲しいの。余り長い間貴方を待つてゐたから死んだのだわ。けれど私たちはもう結婚の約束をしたのだわね。もう貴方に会ひにも行かれるわ。左様なら。ロミュアル、左様なら。私は貴方に恋をしてゐるのよ。私の話したい事はそれだけなの。貴方の接吻で一寸の間かへつて来た命を、貴方に返してあげませうね。また直《ぢき》にお目にかゝつてよ。」
 彼女の頭は垂れた。腕は猶、わしを引止めるやうに、わしを抱いてゐる。其時凄じい旋風が急に窓を打つて、室の中へはいつた。すると白薔薇の最後の一葩《ひとひら》は暫く茎の先で、胡蝶の羽の如くふるへてゐたが、それから茎を離れて、クラリモンドの魂をのせたまゝ、明けはなした窓から外へ翻つて行つてしまつた。と、燈火が消えた。そしてわしは、美しい死人の胸の上へ気を失つて倒れてしまつたのである。
 正気に帰つて見ると、わしは牧師館の小さな室の中にある寝台の上へ横になつてゐた。先住の老犬が、夜着の外へ垂れたわしの手を舐めてゐる。バルバラは老年と不安とでふるへながら、抽斗《ひきだし》をあけたりしめたり、杯の中へ粉薬を入れたりして、忙しく室の中を歩きまはつてゐる。が、わしが眼を開いたのを見ると彼女が喜びの叫を上げれば、犬も吠え立てゝ尾を掉つた。けれどもわしは未だ疲れてゐたので、一口もきく事も出来なければ、身を動かす事も出来なかつた。其後はわしは、わしが微かな呼吸の外は生きてゐる様子もなく、此儘で三日間寝てゐたと云ふ事を知つた。其三日間はわしは殆ど何事も記憶してゐない。バルバラは、わしが牧師館を出た夜に訪《たづ》ねて来たのと同じ銅色《あかがねいろ》の顔の男が、次の朝、戸をしめた輿にのせてわしを連れて来て、それから直ぐに行つてしまつたと云ふ事を聞いた。わしがきれ/″\な考を思合せる事が出来るやうになつた時に、わしは其恐しい夜の凡ての出来事を心の中に思ひ浮べた。わしは初め或魔術的な幻惑の犠牲になつたのだと思つたが、間も無く夫《そ》れでも真実な適確な事実とする事の出来る他の事情を思出したので、此考を許す事も出来なくなつて来た。わしは夢を見てゐたのだとは信じられない。何故と云へばバルバラもわしと同じやうに、二頭の黒馬をつれた見知らぬ男を見て、其男の形なり風采なりを、正確に細かい所迄述べる事が出来たからである。其癖、わしがクラリモンドに再会した城の様子に合ふやうな城の、此近所にある事を知つてゐる者も一人も無い。
 或朝、わしはわしの室で僧院長《アベ》セラピオンに会つた。バルバラもわしの病気だと云ふ事を告げたので、急いで見舞に来てくれたのである。急いで来てくれたのは、彼から云へばわしに対する愛情ある興味を証拠立てゝゐるのであるが、其訪問は、当然わしの感ずべき愉快さへも与へてくれなかつた。僧院長《アベ》セラピオンはその凝視の中に、何処となく洞察を恣《ほしいまま》にするやうな、審問をしてゐるやうな様子を備へてゐるので、わしは非常に間《ま》が悪かつた。彼と対《むか》ひあつてゐる丈でも、わしは当惑と有罪の感じを去る事が出来ないのである。一目見て彼は、わしの心中の苦痛を察したのに違ひない。わしは実に此洞察力の為に彼を憎んだのであつた。
 彼は偽善者のやうな優しい調子でわしの健康を尋ねながら、絶えず其獅子のやうな黄色い大きな眼をわしの上に注い
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