ニ着物の着方を教へながら、時にわしの不器用なのに呆れては噴き出してしまふのである。それがすむと今度は急いでわしの髪をなでつけてくれる。それもすむと、ヴェネチアの水晶に銀の細工の縁をとつた懐中鏡を、わしの前へ出して、面白さうにかう尋ねる。「どんなに見えて? 私を|お附き《ヴァレエ・ド・シャムブル》にかゝへて下すつて?」
わしはもう、何時《いつ》ものわしではない。そして自分でさへこれが自分とは思はれない。云はゞ今のわしが、昔のわしに似てゐないのは、出来上つた石像が、石の塊に似てゐないのと同じ事なのである。わしの昔の顔は、鏡に映つた今の顔を下手な画工の描き崩した肖像のやうに思はれた。わしは美しい。わしの虚栄心は此変化に心からそゝられずにはゐられなかつた。美しく刺繍をした袍はわしを全くの別人にしてしまつたのである。わしは或型通りに断《た》つてある五六尺の布がわしの上に加へた変化の力を、驚嘆して見戍《みまも》つた。わしの衣裳の精霊は、わしの皮膚の中に滲み入つて、十分たつかたたぬ中にわしはどうやら一廉《ひとかど》の豪華の児になつてしまつた。
此新衣裳に慣れようと思つて、わしは室の中を五六度歩いて見た。クラリモンドは花のやうな快楽を味ひでもするやうに、わしを見戍りながら、さも自分の手際《てぎは》に満足するらしく思はれた。「さあ、もう遊ぶのは沢山よ、ロミュアル、これから出かけるのよ。私達は遠くへ行かなければならないのだわ。さうして遅れちやあいけないのだわ。」彼女はわしの手を執つて、外へ出た。戸と云ふ戸は、彼女が手をふれると忽ちに開くのである。わし達は犬の眼もさまさずに其の側を通りぬけた。
門口でわしは、前にわしの護衛兵だつた、あの黒人の扈従のマルゲリトンを見た。彼は三頭の馬の轡を控へてゐる――三頭共、わしをあの城へ伴れて行つた馬のやうに黒い。一頭はわしの為、一頭は彼の為、一頭はクラリモンドの為である。是等の馬は、西風の神の胎をうけた牝馬が生んだと云ふ西班牙馬《スペインうま》に相違ない。何故と云へば彼等は風のやうに疾《はや》いからである。門を出る時に丁度東に上つて路上のわし達を照した明月は戦車から外れた車輪のやうに、空中を転げまはつて、右の方、梢から梢へ飛び移りながら、息を切らしてわし達に伴《つ》いて来る。間も無く一行はとある平野に来た。其処には四頭の大きな馬に曳かせた馬車が一台|一叢《ひとむら》の木蔭に待つてゐる。で、それへ乗り移ると今度は馭者が気違ひのやうに馬を走らせる。わしは片手をクラリモンドの肩にまはして、彼女の片手をわしの手に執つてゐた、彼女の頭はわしの肩に靠《もた》れて、わしは半ば露《あらは》した彼女の胸が軽く、わしの腕を圧するのを感じるのである。わしは此様な熾烈な快楽を味つた事はない。其間にわしは凡ての事を忘れてゐた。わしが僧侶だつたと云ふ事を覚えてゐるのも、わしが母の腹の中にゐた事を覚えてゐるのと同じ程にしか考へられなかつた。此悪魔がわしの上にかけた蠱惑は、是程大きかつたのである。其夜からわしの性質は、或意味に於て二等分されたやうに思はれる。云はゞわしの内に二人の人がゐて、それが互に知らずにゐるのである。或時はわしは自分が夜になると紳士になつた夢を見る僧侶だと思ふが、又或時には、僧侶になつた夢を見てゐる紳士だと思ふ事もある。わしは夢と現実とを分つ事も出来なければ、何処に現実が始まり、何処に夢が定るかさへも見出す事が出来なかつた。貴公子の道楽者は僧侶を馬鹿にするし、僧侶は、貴公子の放埒を罵るのである。互にもつれ合ひながら、しかも互に触れる事のない二つの螺線は、わしの此|二面《ふたおもて》の生活を、遺憾なく示してゐる。しかしわしは、此状態が此様な不思議な性質を持つてゐるにも拘らず、一分でも気違ひになる気などは起らなかつた。わしは常に、思切つて溌剌とした心で、わしの二つの生活を気長く観照してゐたのである。が、唯一つ、わしにも説明の出来ない妙な事があつた――即ちそれは同じ個人性の意識が、全く性格の背反した二人の人間の中に存在してゐたと云ふ事である。わしが自らC――の寒村の牧師補と思つたか、クラリモンドの肩書附きの恋人、ロムアルドオ閣下と思つたか、どうか――これがわしの不思議に思ふ一つの変則なのである。
兎も角も、わしはヴェニスに住んだ。少くも住んだと信じてゐた。わしが此幻怪な事実の中にどれ程の幻想と印象とが含まれてゐるかを正確に発見するのは到底不可能である。わし達は、カナレイオの辺《ほとり》の、壁画と石像との沢山ある、大きな宮殿に住んでゐた、それは一国の王宮にしても恥しくないやうな宮殿で、わし達は各々ゴンドラの制服を着たバルカロリも、音楽室も、御抱への詩人も持つてゐた。殊にクラリモンドは、大規模な生活を恣にするのが常であつた。彼女の性格にはクレオパトラに似た何物かが潜んでゐるのである。わしはと云ふと又王子のやうな宮臣の一列を従へて、常に大国の四福音宣伝師か十二使徒の一人と一家ででもあるやうな、畏敬を以て迎へられてゐた。わしは大統領《ドオヂ》を通すのでさへ、道を譲らうとはしなかつた。魔王《サタン》が天国から堕落して以来、わしより傲慢不遜な人間が此世にゐたとは信じられぬ。わしは又、リドットにも行つて、地獄のものとしか思はれぬ運をさへ弄んだ。わしはあらゆる社会の最も善良な部分――没落した家の子供達とか女役者とか奸黠な悪人とか佞人《ねいじん》とか空威張《からゐばり》をする人間とか――を歓待した。そして此様な生活に沈湎しながらも、わしは常にクラリモンドを忘れなかつた。わしは実に狂気のやうに彼女を愛してゐたのである。一人のクラリモンドを持つのは、二十人の情婦を持つのにも均しい。否、あらゆる女を持つのにも均しい。彼女は其一身に、無数の容貌の変化と無数の清新な嬌艶とを蔵してゐる――真に彼女は女のカメレオンである。彼女はわしの愛を百倍にして返して呉れた。彼女の求めるのは唯、愛である――彼女自身によつて目醒まされた、清浄な青春の愛である。しかも其愛は最初の、又最後の情熱でなければならない。かくしてわしも常に幸福であつた。唯、不幸なのは、毎夜必ず魘《うな》される時だけで、其の時はわしが貧しい田舎の牧師補になつた夢を見ながら、昼間の淫楽を悔いて、贖罪と苦行とに一身を捧げてゐるのである。わしは、常は彼女と親しんでゐられるのに安んじて、わしがクラリモンドと知るやうになつた不思議な関係を此上考へて見ようとはしなかつた。併し彼女に関する僧院長《アベ》セラピオンの言《ことば》は、屡々わしの記憶に現れて、わしの心に不安を与へずにはゐなかつた。
其内に暫くの間クラリモンドの健康が平素のやうにすぐれなかつた。顔の色も日にまし青ざめる。医師を呼んで診《み》せても、病気の質《たち》がわからないので、どう治療していゝか見当《けんたう》が附かない。彼等は皆、役にも立たぬ処方箋を書いて、二度目からは来なくなつてしまふのである。けれ共彼女の顔色は、著しく青ざめて、一日は一日と冷くなる。そして遂には殆どあの不思議な城の記憶すべき夜のやうに、白く、血の気もなくなつてしまつた。わしは此様に徐々と死んでゆく彼女を見るに堪へないで、云ふ可からざる苦痛に苛《さいな》まれたが、わしの苦悶に動かされたのであらう、彼女は、丁度死なねばならぬ事を知つた者の末期《まつご》の微笑のやうに、悲しく又やさしく、わしの顔を見てほゝ笑んだ。
或朝、わしは彼女の寝床の傍に坐つて、直《すぐ》側《そば》に置いてある小さな食卓で朝飯を認めてゐた。それはわしが一分でも彼女の側《そば》を離れたくないと思つたからである。で、或る果物を切らうとした所が、わしは誤つて稍々深くわしの指を傷けた。すると血がすぐに小さな鮮紅の玉になつて流れ出したが、其滴が二滴三滴、クラリモンドにかゝつたと思ふと彼女の眼は忽ちに輝いて、其顔にも亦、わしが嘗て見た事の無いやうな、荒々しい、恐しい喜びの表情が現れた。彼女は忽ち獣の如く軽快に、寝床から躍り出て――丁度猿か猫のやうに軽快に――わしの傷口に飛びつくと、云ひ難い愉快を感じるやうに、わしの血をすゝり始めた。しかも彼女は静かに注意しつゝ、恰も鑑定上手《めきゝじやうず》が、セレスやシラキュウズの酒を味ふやうに、其小さな口に何杯となく啜つて飽かないのである。と、次第に彼女の瞼は垂れ、緑色の眼の瞳は円いと云ふよりも、寧ろ楕円になつた。そしてわしの手に接吻しようとしては、口を離すかと思ふと、又更に幾滴かの紅い滴を吸ひ出さうとして、わしの傷口に其唇をあてるのであつた。血がもう出ないのを見ると、彼女は瑞々した、光のある眼を輝かしながら、五月の朝よりも薔薇色に若やいで、身を起した。顔はつや/\と肉附いて、手も温かにしめつてゐる――常よりも一層美しく、健康も今は全く恢復してゐるのである。
「私もう死なないわ、死なないわ。」悦びに半ば狂したやうにわしの首に縋りつきながら、彼女はかう叫んだ。「私はまだ長い間貴方を愛してあげる事が出来てよ。私の命は貴方の有《もの》だわ。私の中にある物は皆、貴方から来たのだわ。貴方の豊な貴い血の滴が、世界中のどの不死の薬よりも得難い、力のつく薬なの。その血の滴のおかげで私は命を取返したのだわ。」
此光景は長い間、わしの記憶に上つて来た。そしてクラリモンドに対する不思議な疑惑をわしに起させた。丁度其の夜、睡がわしを牧師館に移した時に、わしは僧院長《アベ》セラピオンが平素よりは一層真面目な、一層気づかはしさうな顔をしてゐるのを見た。彼はぢつとわしを見つめてゐたが、悲しげに叫んで云ふには「お前は霊魂を失ふ丈では飽足りなくて、肉体をも失はうとするのかの。見下げ果てた奴め、何と云ふ恐しい目にあふものぢや。」彼のかう云つた調子は、強くわしを動かした。が、此記憶の鮮かなのにも拘らず、其印象さへ間も無く消えてしまつて、数知れぬ外の心配がわしの心からそれを移してしまつた。遂にある夜わしはクラリモンドが、食事の後で日頃わしにすゝめるを常とした香味入りの酒の杯へ、何やら粉薬を入れるのを見てとつた。それは彼女がさうとは気が附かずに立てゝ置いた鏡に映つて見えたのである。わしは杯をとり上げて、口へ持つてゆく真似をして、それから、後で飲むつもりのやうに手近にあつた家具の上へのせて置いた。で、彼女が後を向いた隙を窺つて、中の酒を卓の下へあけると、其儘、わしの閨へ退いて床の上に横になつた。わしは少しも眠らずに、此神秘から何が起るか気を附けて見出さうと決心したのである。待つ間もなく、クラリモンドは、寝衣を着てはひつて来た。そして寝床の上に上つてわしの傍に横になつた。彼女はわしが睡つてゐるのを確めると、わしの腕をまくつて、髪から金の留針をぬきながら、低い声でかう呟き始めた。
「一|滴《しづく》、たつた一滴、私の針の先へ紅宝玉《ルビイ》をたつた一滴……貴方はまだ私を愛してゐるのですから、私はまだ死なれません……あゝ可哀さうに、私は美しい血を、まつ赤な血を飲まなければならないのね、お休《やす》みなさい、私のたつた一の宝物、お眠みなさい、私の神、私の子供、私は貴方に害をしようと思つてはゐなくつてよ。私は唯、貴方の命から、私の命が永久に亡びてしまはない丈の物を頂くのだわ。私は貴方を愛してゐるのでせう、だから私は外に恋人を拵へて、其人の血管を吸ひ干す事にした方がいゝのだわ。けれど貴方を知つてから、私、外の男は皆厭になつてしまつたのですもの……まあ美しい腕ね、何と云ふ円いのだらう、何と云ふ白いのだらう、どうして私は此様な青い血管を傷ける事が出来るのだらう。」かう呟き乍ら、彼女はさめ/″\と涙を流した。其時わしは、彼女がわしの腕を執りながら、其上に落す涙を感じたのであつた。遂に彼女は意を決して、其留針で一寸わしを刺した。そして其処から滴る血を吸ひ始めた。彼女はほんの五六滴しか飲まなかつたが、わしの眼を醒ますのを怖れたので、丁寧に小さな布でわしの腕を括つてくれた。それから後で又傷を膏薬でこすつてくれたので、傷は直に癒つ
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