弗利加《アフリカ》や南|亜米利加《アメリカ》に客寓中《かくぐうちう》、独り稿を継《つ》いで行つた。其の間《かん》に於ける彼の胸中は、「他人目《たにんめ》には何《ど》うか知らないけれども、自分では何よりの慰藉《ゐしや》と満足との泉であつた」と云ふ彼自身の言葉が尽《つく》して居《ゐ》る。
 斯くて稿を畢《をは》つて、一八七九年の春から清書に取掛《とりかか》つて行つたが、一八八二年の冬、或雑誌に、ジヨン・ペインの訳本が刊行されると云ふ予告が出た。バアトンが之を知つたのは、恰《あたか》も西部亜弗利加の黄金《わうごん》海岸へ遠征しようと云ふ間際《まぎは》であつた。乃《そこ》でペインに「小生も貴君《きくん》と同様の事業を企《くはだ》て居り候へども、貴君の既《すで》に之を完成されたるは結構千万の儀にて、先鞭《せんべん》の功は小生よりお譲り可申《まうすべく》云々《うんぬん》」と云ふ手紙を送つた。その中《うち》にペインの訳本が出た。で、バアトンは一時中止した。
 バアトンが又続けて言つて居る。「東部|亜弗利加《アフリカ》のゼイラに二箇月間滞在してゐた時にも、ソマリイを横断の陣中でも、此の「一千一夜《いちせんいちや》」が何《ど》の位自分を慰めて呉れたか解《わか》らない」と。
 然らば此のバアトンの訳本は、欧洲の天地を遠く離れて、而も瘴煙蛮雨《しやうえんばんう》の中で生れたもので、恰《あたか》もタイチに赴いたゴオガンの絵と好対照である。
 一八八四年に、バアトンはトリエストに滞在中、最初の二巻を脱稿した。
 茲《ここ》で問題は印刷部数である。或学者が曰ふ、「百五十部乃至二百五十部で宣《よろ》しからう」と。其の学者と謂《い》ふのは、本文《ほんもん》を十六万部も刷《す》つて、六シルリングの廉価本《れんかぼん》より五十ギニイの高価本まで売り尽した男である。又或出版業者は「五百部がよい」と云つた。ただ素人《しろうと》の一友人が「二千から三千がよい」と勧めた。バアトンも迷つた末、一千部に決《き》めた。
 バアトンはそれから知人未知人を問はず、買ふらしい人の表を作つて、広告を配《くば》つた。其の要綱は、全十冊、一冊一ギニイ、各冊とも代金は本と引換へのこと、廉価版は発行しない。一千部限り印行、十八箇月内に完結の予定、と云ふ規定であつた。広告配布数は二万四千で、その費用は百二十六ポンド掛《かか》つた。返
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