うは松山でございます。どうか松山の空にかかつた、かすかな虹《にじ》も御覧下さい。その下には聖霊を現す為に、珠数懸《じゆずか》け鳩《はと》が一羽飛んで居ります。
「勿論かやうなお姿にしたのは御意《ぎよい》に入らぬことでございませう。しかしわたしは御承知の通り、日本の画師《ゑし》でございます。日本の画師はあなた様さへ、日本人にする外《ほか》はございますまい。何《なん》とさやうではございませんか?」
「まりや」はやつと得心《とくしん》したやうに、天上の微笑《びせう》を輝かせた。それから又星月夜の空へしづしづとひとり昇つて行つた。……

     玄関

 わたしは夜寒《よさむ》の裏通りに、あかあかと障子へ火の映《うつ》つた、或家の玄関を知つてゐる。玄関を、――が、その蝦夷松《えぞまつ》の格子戸《かうしど》の中へは一遍《いつぺん》も足を入れたことはない。まして障子に塞《ふさ》がれた向うは全然未知の世界である。
 しかしわたしは知つてゐる。その玄関の奥の芝居を。涙さへ催させる人生の喜劇を。
 去年の夏、其処《そこ》にあつた老人の下駄《げた》は何処《どこ》へ行つたか?
 あの古い女の下駄とあの小さ
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