論《もちろん》目を閉ぢたなり、線香の薫《かほ》りを嗅《か》いでゐるのである。
 わたしは足音を盗みながら、円卓《テエブル》の前へ歩み寄つた。少女はそれでも身ぢろぎをしない。大きい黒檀の円卓《テエブル》は丁度《ちやうど》澄み渡つた水のやうに、ひつそりと少女を映《うつ》してゐる。顔、白衣《びやくえ》、金剛石《ダイアモンド》のブロオチ――何一つ動いてゐるものはない。その中に唯線香だけは一点の火をともした先に、ちらちらと煙を動かしてゐる。
 少女はこの一※[#「火+主」、第3水準1−87−40]《いつしゆ》の香《かう》に清閑《せいかん》を愛してゐるのであらうか? いや、更に気をつけて見ると、少女の顔に現れてゐるのはさう云ふ落着いた感情ではない。鼻翼《びよく》は絶えず震えてゐる。脣《くちびる》も時時ひき攣《つ》るらしい。その上ほのかに静脈《じやうみやく》の浮いた、華奢《きやしや》な顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりには薄い汗さへも光つてゐる。……
 わたしは咄嗟《とつさ》に発見した。この顔に漲《みなぎ》る感情の何かを!
 妙に薄曇つた六月の或朝。
 八大胡同《はちだい
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