通りかかった。そこにはシャツ一枚の男が一人「食堂」の女中とふざけながら、章魚《たこ》を肴《さかな》に酒を飲んでいた。それは勿論彼女の目にはちらりと見えたばかりだった。が、彼女はこの男を、――この無精髭《ぶしょうひげ》を伸ばした男を軽蔑《けいべつ》しない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。同時にまた自然と彼の自由を羨《うらや》まない訣にも行かなかった。この「食堂」を通り越した後はじきにしもた[#「しもた」に傍点]家《や》ばかりになった。従ってあたりも暗くなりはじめた。たね子はこう云う夜《よる》の中に何か木の芽の匂《にお》うのを感じ、いつかしみじみと彼女の生まれた田舎《いなか》のことを思い出していた。五十円の債券を二三枚買って「これでも不動産《ふどうさん》(!)が殖《ふ》えたのだからね」などと得意になっていた母親のことも。……
次の日の朝、妙に元気のない顔をしたたね子はこう夫に話しかけた。夫はやはり鏡の前にタイを結んでいるところだった。
「あなた、けさの新聞を読んで?」
「うん。」
「本所《ほんじょ》かどこかのお弁当屋《べんとうや》の娘の気違いになったと云う記事を読んで?」
「発狂した?
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